トップ
>
千早
>
ちはや
ふりがな文庫
“
千早
(
ちはや
)” の例文
軽視の風がある
楠木正成
(
くすのきまさしげ
)
も、赤坂から
千早
(
ちはや
)
への築城を完了し、金剛山一帯は、今やひとつの
連鎖
(
れんさ
)
陣地をなして来たともつたえている。
私本太平記:06 八荒帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
網代人は網代の番をする人。
千早
(
ちはや
)
人は
氏
(
うじ
)
に続き、同音の
宇治
(
うじ
)
に続く枕詞である。皆、旅中感銘したことを作っているのである。
万葉秀歌
(新字新仮名)
/
斎藤茂吉
(著)
千早
(
ちはや
)
の方へつづいている雑木林を分けて、右衛門一人だけを供につれて、桂子は歩いて行った。
あさひの鎧
(新字新仮名)
/
国枝史郎
(著)
金
(
かね
)
の
岬
(
みさき
)
を過ぎても「
千早
(
ちはや
)
振る金の
御崎
(
みさき
)
を過ぐれどもわれは忘れずしがのすめ神」
源氏物語:22 玉鬘
(新字新仮名)
/
紫式部
(著)
ただその中で一つ、帆村の注意を惹いたのは、「
千早
(
ちはや
)
館」という文字だった。
千早館の迷路
(新字新仮名)
/
海野十三
(著)
▼ もっと見る
しかもその一人が、日本能楽の始祖の母だったという一構想に立ちうれば、私の文学的想像の野も、
千早
(
ちはや
)
、
金剛
(
こんごう
)
、湊川だけのものではなくなって来る。
随筆 私本太平記
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
「
千早
(
ちはや
)
は落ちたか、あら悲しや」
弓道中祖伝
(新字新仮名)
/
国枝史郎
(著)
やがてこの地方の
千早
(
ちはや
)
、金剛山から洛中洛外も戦火となって、大乱の険悪さが、ついには閑人の閑居もここにゆるさない日となってからではあるまいか。
私本太平記:02 婆娑羅帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
正成がみかどの
召
(
めし
)
にこたえて、みずからここの
館
(
たち
)
も焼きすてて
千早
(
ちはや
)
の上にたてこもったときは、もうこの桜も枯死したかと惜しまれたが、年々歳々、春が来れば
私本太平記:11 筑紫帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
千早
(
ちはや
)
、
金剛山
(
こんごうせん
)
は云わずもがなである。この辺はどんな小山も
窪地
(
くぼち
)
も、
柵
(
さく
)
や
寨
(
とりで
)
でないところはない。
日本名婦伝:大楠公夫人
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
“
茅屋
(
ちがや
)
”の名が古く、
千剣破
(
ちはや
)
は当時の
宛字
(
あてじ
)
である。後々まで“
千早
(
ちはや
)
”がひろく通っている。
私本太平記:05 世の辻の帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
中腹の
千早
(
ちはや
)
、赤坂などより、ずっと下だが、もう山裾の一端にはかかっている。
私本太平記:03 みなかみ帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
けれど生まれたのは、
千早
(
ちはや
)
籠城の食べ物もない中だった。
私本太平記:13 黒白帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
“千早”の解説
千早(ちはや・襅)とは、日本において古くから神事の際に用いられた衣装で、主に女性が着た。
古代の貫頭衣の名残とされる。
現代では小忌衣の一種とされ、身二幅・袖一幅、脇を縫わず衽(おくみ:着物の前身頃に重なる部分)がない以外は通常の単物の和服に似た形態をとる。
袖は縫わずに紙縒で止めるのは、もともと袖がなかった名残である。
(出典:Wikipedia)
千
常用漢字
小1
部首:⼗
3画
早
常用漢字
小1
部首:⽇
6画
“千早”で始まる語句
千早振
千早健
千早川
千早人
千早城
千早帖
千早村
千早解
千早林鳥
千早金剛