入間いるま)” の例文
武蔵の入間いるま郡には椿峯つばきみねという所が二箇所あります。その一つは、御国みくにの椿峯で、高さ四五尺の塚の上に、古い椿の木が二本あります。
日本の伝説 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
入間いるま川から女影おなかげの原付近で、とかく物騒なうわさが絶えないというので、夜旅をかけて武蔵野を横ぎる場合は、立場問屋たてばといや出立しゅったつの時刻をさだめ
江戸三国志 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
前年の六月になっても米価はますます騰貴するばかりで、武州の高麗こま入間いるま榛沢はんざわ秩父ちちぶの諸郡に起こった窮民の暴動はわずかに剣鎗けんそうの力で鎮圧されたほどである。
夜明け前:02 第一部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
「武蔵野のおもかげは今わずかに入間いるま郡に残れり」と自分は文政年間にできた地図で見たことがある。
武蔵野 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
其視界の尽くる所に軽い一抹の雲烟のようなものがふわりと浮んでいる。此の夢のような夫とも分らない薄い藍色の山は、恐らく秩父入間いるまの郡境にわたる飯盛峠の附近であろうと思う。
奥秩父の山旅日記 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
ゆるされしかば夫々に改名かいめいして家來分となりにけるまづ紺屋五郎兵衞は本多源右衞門ほんだげんゑもん呉服屋又兵衞は南部權兵衞なんぶごんべゑ蒔畫師の三右衞門は遠藤森右衞門米屋六兵衞は藤代要人ふぢしろかなめと各々改名に及びたり中にも呉服屋又兵衞は武州入間いるま郡川越に有徳うとく親類しんるゐあれば彼方どなたか御同道下さらば金千兩位は出來しゆつたいすべしといふにより山内伊賀亮は呉服屋又兵衞を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
東京の附近では入間いるま郡の三つ井という所に、弘法大師が来られた時には、気立てのやさしい村の女が、機を織っていたそうであります。
日本の伝説 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
武蔵の入間いるま方面へ出る正丸峠と、山伏峠やまぶしとうげを経て鳥首から天目山へわかれる山路と、また一方、高麗こまごう高麗村の峡谷へ出る幾つかの道の追分になっている。
江戸三国志 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
利根川がまだ東京湾に注いでいた頃で、其時は荒川も今の元荒川の水路を流れて、越ヶ谷附近で利根川に入り、荒川の現水路は入間いるま川の河身であったから、末は在五中将の隅田川というたのである。
利根川水源地の山々 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
また『新篇風土記稿』の入間いるま郡下安松(今の松井村大字)の条には、多摩郡山口村の辺より新座にいくら郡引又町(今の北足立郡志木町)の辺まで
地名の研究 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
そこに、入間いるまへ落ちる渓流を前にし、青い峯をうしろにして、広やかな芝生の荘園を抱き、法然ほうねん作りの門構え、古風にして雅致ある南画のような邸宅がある。
江戸三国志 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
北足立きたあだち郡石戸村大字石戸宿いしとじゅく字堀之内は石戸氏の城址、入間いるま勝呂すぐろ村大字石井の堀ノ内は勝呂氏館址、同毛呂もろ村大字毛呂本郷の堀ノ内は毛呂氏の館址
地名の研究 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
武州では金子十郎家忠が出たという入間いるま郡の金子村、あるいは上州の金古町のごとき、これらは沖縄や大島の兼久かねくとともに、水辺の低地を意味したのかも知れぬが(続地名辞書)
地名の研究 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
しわぶきは古い言葉で、咳のことであります。(入間いるま郡誌。埼玉県川越市喜多町)
日本の伝説 (新字新仮名) / 柳田国男(著)