佐野さの)” の例文
妻は下総国しもうさのくに佐倉の城主堀田ほった相模守正愛まさちか家来大目附おおめつけ百石岩田十大夫いわたじゅうたゆうむすめ百合ゆりとして願済ねがいずみになったが、実は下野しもつけ安蘇郡あそごおり佐野さのの浪人尾島忠助おじまちゅうすけむすめさだである。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
この野の中に御殿場から印野いんの須山すやま佐野さのなどいふ小さな部落が散在してゐるが、いづれもその間二里三里四里あまりの草の野を越えて通はねばならぬ。
又「おっと心得た、僕の縁類えんるい佐野さのにあるから、佐野へ持って往って、山の中の谷川へ棄てるか、又は無住むじゅうの寺へでも埋めれば人に知れる気遣きづかいはないから心配したもうな」
仔細しさいあって我家にかくまうそれまでは新吉原しんよしわら佐野さの槌屋つちやの抱え喜蝶きちょうと名乗ったその女である。
散柳窓夕栄 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
岡田夫婦はまた佐野さのという婿むこになるべき人の性質や品行や将来の望みや、その他いろいろの条項について一々自分に話して聞かせた。最後に当人がこの縁談の成立を切望している例などを挙げた。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
縫は享和二年に始めて須磨すまというむすめを生んだ。これは後文政二牛に十八歳で、留守居るすい年寄としより佐野さの豊前守ぶぜんのかみ政親まさちか飯田四郎左衛門いいだしろうざえもん良清よしきよに嫁し、九年に二十五歳で死んだ。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
明治二十四年には保は新居を神田仲猿楽町五番地にぼくして、七月十七日に起工し、十月一日にこれをらくした。脩は駿河国駿東郡すんとうごおり佐野さの駅の駅長助役に転じた。抽斎歿後の第三十三年である。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)