驍名ぎょうめい)” の例文
戦場に立てば、驍名ぎょうめい敵を畏怖いふせしめるに足る猛将利三としみつが、小姓の手もからず、光秀の小袖からはかまをはく手助けまでしているのだった。
新書太閤記:06 第六分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
わがむっつり右門の驍名ぎょうめいは但馬守にもすでに旧知の名まえでしたから、まず最初に右門が面接を許されることになりました。
だから河内介輝勝も、一時は全くあの浅ましい享楽から遠ざかって、ひたすら戦場に驍名ぎょうめいを馳せるより外には何の望みもなかったことゝ解釈していゝ。
本朝のアルピニストにして、後にアルプスに驍名ぎょうめいを馳せられた人々に、槇有恒まきありつね、松方三郎、浦松佐美太郎、その他の諸氏ありといえども、辻村等は卒先者であり
官賊の名分また如何いかんともしがたいのだから、薩軍の不利は最初から明白であったが、しかし当時は西郷の威名と薩摩隼人の驍名ぎょうめいおののいていたのであるから
田原坂合戦 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
そこで、関ヶ原では、驍名ぎょうめいとどろかした井伊の赤備えなんぞも、奇兵隊のボロ服にかかってさんざんなものさ。
大菩薩峠:29 年魚市の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
片岡中将としいえば、当時予備にこそおれ、驍名ぎょうめい天下に隠れなく、かしこきあたりの御覚おんおぼえもいとめでたく、度量濶大かつだいにして、誠に国家の干城と言いつべき将軍なり。
小説 不如帰  (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
そのころ生蕃は得意の絶頂にあった、かれが三年のライオンを征服してから驍名ぎょうめい校中にとどろいた。
ああ玉杯に花うけて (新字新仮名) / 佐藤紅緑(著)
とら格殺かくさつしたり岩に矢を立てたりした飛将軍ひしょうぐん李広の驍名ぎょうめいは今もなお胡地こちにまで語り伝えられている。陵が厚遇を受けるのは、彼が強き者の子孫でありまた彼自身も強かったからである。
李陵 (新字新仮名) / 中島敦(著)
利三も、明智家に属するまえは、斎藤一族のうちに驍名ぎょうめいある稲葉伊予守長通いなばいよのかみながみちに仕えていた時代があるからである。
新書太閤記:06 第六分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
誰一人これを破りうる者がなく、七人が七人悉く敢ない最期をとげたので、早乙女主水之介の驍名ぎょうめいはその時うけた三日月形の傷痕と共に、たちまち江戸御府内を蔽うに至りました。