穴門あなと)” の例文
タラシナカツ彦の天皇(仲哀天皇)、穴門あなと豐浦とよらの宮また筑紫つくし香椎かしいの宮においでになつて天下をお治めなさいました。
日本書紀では、崇神すじん天皇の御代の末、朝貢の使が穴門あなと(今の長門)に来つたが、天皇崩御後なので、垂仁すゐにん天皇が父天皇の御名を取つて、任那みまなの国号を賜うたとある。
二千六百年史抄 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
そのために、七年間、天皇は穴門あなと国にとどまったが、そのあいだに何をしたか、すこしも分からない。天皇は、戦いにやぶれて、仮の宿所で死んだ。昔から、疑問の一大事件とされている。
所詮しょせん、混雑はまぬかれまいとの見越みこしから、いっそ海上がよかろう、島がよいとなって、赤間ヶ関と門司ヶ関との間の小島——穴門あなとしまとも、またの名を船島ともいう所ですることと決定いたした
宮本武蔵:08 円明の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
此伝説と穴門あなとの語とが後人の議論に上つたことは人の知る所である。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
帶中たらしなか日子ひこの天皇穴門あなと豐浦とよらの宮また筑紫つくし訶志比かしひの宮にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、大江おほえの王が女、大中津おほなかつ比賣の命に娶ひて、生みませる御子、香坂かごさかの王、忍熊おしくまの王二柱。