狭山さやま)” の例文
旧字:狹山
よくはおぼえていないが、最初に里子に遣られた先は、南河内の狭山さやま、何でも周囲一里もあるという大きな池の傍の百姓だったそうです。
アド・バルーン (新字新仮名) / 織田作之助(著)
久米川くめがわ夜虹よにじ狭山さやまの怪し火、女影おなかげの里の迷路、染屋そめやの逃げ水など、曠野こうやの生んだ幻影はこの地の名物でありますが、遂に、その晩の馬と人も
江戸三国志 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
狭山さやまの岡というのは、武蔵野の粂村くめむらあたりから起って、西の方、箱根ヶ崎で終る三里ほどの連岡れんこうであります。
大菩薩峠:21 無明の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
されども、彼は別に奥の一間ひとまおのれの助くべき狭山さやまあるをも忘るべからず。そは命にも、換ふる人なり。又されども、彼と我との命に換ふる大恩をここのあるじにも負へるなり。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
こうして二十八の年から四十九歳の今日こんにちまで警視庁に奉職して、あらゆる難問題を解決して、鬼狭山さやまとまでうたわれた私の眼力は、この少年の五尺二寸ばかりの身体からだを眼の前に置きながら
暗黒公使 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
定番の下には一年交代の大番頭おほばんがしらが二人ゐる。東大番頭は三河みかは新城しんじやう菅沼織部正定忠すがぬまおりべのしやうさだたゞ、西大番頭は河内かはち狭山さやまの北条遠江守氏春とほたふみのかみうぢはるである。以上は幕府の旗下で、定番の下には各与力三十騎、同心百人がゐる。
大塩平八郎 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
「社会奉仕」というからには、あくまで善は急ぐべしと、早速おかね婆さんを連れて、三人で南河内かわち狭山さやまへ出掛けた。
勧善懲悪 (新字新仮名) / 織田作之助(著)
多摩の狭山さやまに、とりでをかまえて、朝に夕に、府中の国庁をおびやかし、放火、第五列、内部の切りくずし、領民の煽動、畑荒し、暗殺、流説——などを行い
平の将門 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
それは秩父連山の尾根が青梅あたりで尽きて二里、狭山さやまの丘が起るまでの間。
大菩薩峠:26 めいろの巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
狭山さやまさん、貴方もそんなに言はなくたつて可いぢやありませんか」
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
道は、狭山さやまノ池のくびりで半田の部落をのぞいている。そこの木戸でも、おなじ偽称で難なく通りぬけた。
私本太平記:07 千早帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「実をいうと、あの狭山さやまは、うちの持山にはちげえねえが、頑固な叔父貴が住んでいて、先祖からのおきてをたてに、どんなに困ろうと、売ろうとはしねえから……」
野槌の百 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そして、はるか多摩の西北地方——狭山さやまの辺りに、身を隠した。狭山には、彼の別邸があったらしい。
平の将門 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ただ百は、狭山さやまに泊った老母と、叔父貴の夜話が、時々、心のすみで、気にかかった。
野槌の百 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
百は狭山さやまの叔父にたのもうかと考えたが、例の七兵衛に入れてある証文が不安であるし、そのうちにまた、お稲が、こんな野鍛冶の家に嫌気がさしては——などと惑われて、ふいごの前に坐っても
野槌の百 (新字新仮名) / 吉川英治(著)