具教とものり)” の例文
だがほかにもう一家、伊勢桑名の太守北畠具教とものりがある。この具教もその道においてかくれない達人であり、またよい国司でもあったらしく
宮本武蔵:04 火の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
国司北畠具教とものりは名高い大将で、大河内おごうち城に拠って固く防いだ。蒲生鶴千代、改め忠三郎賦秀は、五百の兵を率いて陣頭に進んだが、身も心も全く動揺してしまった。
蒲生鶴千代 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
門弟一万を越える中、その最も有名なのは足利将軍義輝公、伊勢国司北畠具教とものりで、後年柳生但馬守が徳川将軍に教授したのと、天下二師範の名の下に並称されたものである。
神州纐纈城 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
伊勢はこうして、席巻せっけんされた。自国の過半を、またたく間に失って、大納言北畠具教とものりも、遂に、和を乞うしかなかった。
新書太閤記:03 第三分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
世にふとの御所とよばれた国主の北畠具教とものり卿は、卜伝ぼくでん直系の第一人者であった。その権勢、その流風を慕って、由来、伊勢路の往来には武芸者のすがたも多い。
剣の四君子:05 小野忠明 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
わすれもしないこの年は天正四年で、実にこのときに国主北畠具教とものりも討死して終ったのであった。
剣の四君子:05 小野忠明 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「いや、おぬしへいっているのではない。大納言具教とものりの眼からすれば、斯波しば家の一被官ひかん、織田家のごとき、また、その一家人にすぎぬ滝川一益かずますのごとき、相手にとるも、けがれというだろう」
新書太閤記:03 第三分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「訪ねて御座られたのじゃ。その前に、伊勢のふとの御所——あの北畠具教とものり卿を訪ねられ、具教卿より、奈良へ渡られたら、胤栄いんえいという変な坊主といちど会って御覧なされと聞いて来られたらしい」
剣の四君子:02 柳生石舟斎 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
おい疋田文五郎ひきだぶんごろうという者と、老弟の鈴木意伯いはくをつれ、諸国の兵法家を求めて遊歴していたもので、それがふと伊勢のふとの御所といわれる北畠具教とものりの紹介で、宝蔵院にまみえ、宝蔵院の覚禅房胤栄いんえい
宮本武蔵:03 水の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
富田勢源とだせいげんとか、北畠中納言具教とものりとかいう上手も輩出していた。
随筆 宮本武蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)