蒲生賢秀がもうかたひで)” の例文
蒲生賢秀がもうかたひで以下の留守居衆が、信長の妻子眷族けんぞくをつれてことごとく日野の城へ退いていた後だし、町の家々にも、暖簾のれんも見えず商品の影もない。
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
阿部の屋敷の裏門に向うことになった高見権右衛門はもと和田氏で、近江国おうみのくに和田に住んだ和田但馬守たじまのかみすえである。初め蒲生賢秀がもうかたひでにしたがっていたが、和田庄五郎の代に細川家に仕えた。
阿部一族 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
あれは日野ひの城の蒲生賢秀がもうかたひでどののお子で鶴千代どのと申されます。
蒲生鶴千代 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
ここにあるべきはずの北畠信雄きたばたけのぶおは、蒲生賢秀がもうかたひでとともに江州ごうしゅうの土山にたてこもり、いまなお伊勢伊賀の叛乱軍と抗戦中なることも来て見てわかった。
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
蒲生賢秀がもうかたひで氏郷うじさとの父子でさえ、その際には、思案を決しかねて、成願寺じょうがんじの陽春和尚をしょうじ、卜占ぼくせんをたてさせて、決断をえきに訊いたというほどであるから
新書太閤記:09 第九分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
蒲生賢秀がもうかたひでの所へは、早くも同夜ひそかに光秀から手を廻して、招降しょうこうの書が届けられていたともいう。
新書太閤記:07 第七分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「これに連れて参りました侍は、佐々木六角殿の旗下きかでも、かねて勇名の聞えていた日野城のあるじ蒲生賢秀がもうかたひでどの。——また、側にひかえているのは、御嫡子ごちゃくし鶴千代つるちよどのでございます」
新書太閤記:03 第三分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
一は、その信長に征せられた蒲生賢秀がもうかたひでという降将の子。
新書太閤記:10 第十分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)