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塩冶
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えんや
ふりがな文庫
“
塩冶
(
えんや
)” の例文
出雲の
塩冶
(
えんや
)
は元々佐々木一族だし、筑紫の大友は、初めから信じ難いふしがあるので後陣においた者である。ここで彼はハッとした。
私本太平記:10 風花帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
簸川
(
ひかわ
)
郡
塩冶
(
えんや
)
村には塩冶判官の屋敷跡と称する地、これを判官の土井と呼び今に至るまで民家を作らぬ。これは一町四方に土手を築いてあるという。
地名の研究
(新字新仮名)
/
柳田国男
(著)
賢弟とわかれて国にくだりしが、
国人
(
くにびと
)
大かた経久が
勢
(
いきほ
)
ひに
服
(
つ
)
きて、
塩冶
(
えんや
)
の
恩
(
めぐみ
)
を
顧
(
かへりみ
)
るものなし。
従弟
(
いとこ
)
なる
赤穴
(
あかな
)
丹治、富田の城にあるを
訪
(
とむら
)
ひしに、利害を説きて吾を経久に
見
(
まみ
)
えしむ。
雨月物語:02 現代語訳 雨月物語
(新字新仮名)
/
上田秋成
(著)
出雲の品で忘れ得ないもの、また忘れてならないものの一つは「
日出団扇
(
ひのでうちわ
)
」であります。簸川郡
塩冶
(
えんや
)
村浄音寺で作られます。紙の部分は横に広いやや
楕円
(
だえん
)
の形をなし色が白と紺との染分けであります。
手仕事の日本
(新字新仮名)
/
柳宗悦
(著)
そのうちの大友だけは、海道箱根ノ合戦で、道誉や
塩冶
(
えんや
)
高貞らと共に、足利方へ寝返っていたが、なお他の九州宮方は健在なのだ。
私本太平記:10 風花帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
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塩冶
(
えんや
)
高貞は、一たん後醍醐に忠仕し、後に武家方へ降参していた大名なので、そのごも、ひそかには吉野朝廷の方へ心を通わせていたあとがある。
私本太平記:13 黒白帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
そして武士では、正成、長年が“決断所付き”兼務を仰せつかり、また
結城
(
ゆうき
)
親光や、
塩冶
(
えんや
)
高貞、
高
(
こう
)
ノ
師直
(
もろなお
)
、佐々木道誉などの顔ぶれが加わっている。
私本太平記:09 建武らくがき帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
「お使いにてお味方の千種どの以下、新田、名和、結城、
塩冶
(
えんや
)
そのほかの諸将は、はや、お広間のほうで、あらまし顔をそろえてお待ち申しあげておりまする」
私本太平記:09 建武らくがき帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
出雲の守護、
塩冶
(
えんや
)
判官高貞も、国元兵をつれて、前駆の役をつとめている。朝山太郎は五百騎で後陣にしたがい、
金持
(
かなじ
)
大和守は、錦の旗を捧持し、また、伯耆守名和長年は
私本太平記:09 建武らくがき帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
後醍醐天皇が、隠岐から
凱旋
(
がいせん
)
されたさいは、名和長年をはじめ、勲功の臣には、かつてそれぞれ恩賞が下されたが、出雲の守護、
塩冶
(
えんや
)
高貞へは、宮中のその一美人を賜わった。
私本太平記:13 黒白帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
彼と、
塩冶
(
えんや
)
判官高貞の妻との艶話なども、ひどく
市井
(
しせい
)
に喧伝されたものである。
私本太平記:13 黒白帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
「
塩冶
(
えんや
)
殿のいとこ、
富士名義綱
(
ふじなよしつな
)
と知りあい、その手づるで」
私本太平記:06 八荒帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
「そうは言ってませんでしたが、島後の
館
(
たち
)
へ、先ごろ、鎌倉表から偉い人がやってきて、それの相談事でここの能登も呼ばれて行ったんですって。……いや出雲の守護の
塩冶
(
えんや
)
高貞もよばれて、島後へ渡ったと、話していました」
私本太平記:06 八荒帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
出雲の
塩冶
(
えんや
)
判官高貞
私本太平記:10 風花帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
「……
塩冶
(
えんや
)
か」
私本太平記:05 世の辻の帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
塩
常用漢字
小4
部首:⼟
13画
冶
常用漢字
中学
部首:⼎
7画
“塩冶”で始まる語句
塩冶判官
塩冶掃部介
塩冶判官高貞
塩冶勢
塩冶城
塩冶高貞