かすか)” の例文
謁見室にはただ一人宮相だけが残っていた。夜と昼との境目の、微妙な灰色の外光を、窓からかすかに受けながら、彼は思いに沈んでいる。
闘牛 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
詩歌の本流というものもちょうどこうした深処しんしょにあってかすかに、力強く流るるものだ。この本流のまことの生命力を思わねばならない。
木曾川 (新字新仮名) / 北原白秋(著)
 千仭せんじんがけかさねた、漆のような波の間を、かすかあおともしびに照らされて、白馬の背に手綱たづなしたは、この度迎え取るおもいものなんです。
海神別荘 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
そして、彼女が、うとうとと、居眠りを始める様な場合には、私は、極く極くかすかに、膝をゆすって、揺籃ようらんの役目を勤めたことでございます。
人間椅子 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
「いゝえ、あなた。里の方はとうのむかし、わたくし、ほんのかすかに覚があるくらゐですの。わたくし七ツの時から乳母の家で育ちましたの。」
来訪者 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
思ひ切りたる道なれど、今を限りの浪の上、さこそ心細かりけめ、三月やよいの末の事なれば春も既に暮れぬ。海上遥かに霞こめ浦路の山もかすかなり。
本朝変態葬礼史 (新字新仮名) / 中山太郎(著)
かすかな幽な声で転がすようにうたった。まさしく生ているおりなら、みくずれるほどに笑ったのであろう。唇をパクリとした。
私はもう掻毟かきむしられるような悶心地もだえごこちになって聞いておりますと、やがて御声はかすかになる。泣逆吃なきじゃくりばかりは時々聞える。時計は十時を打ちました。
旧主人 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
丸顔にうれい少し、さっうつ襟地えりじの中から薄鶯うすうぐいすらんの花が、かすかなるを肌に吐いて、着けたる人の胸の上にこぼれかかる。糸子いとこはこんな女である。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
夜更よふけて四辺あたりしずかなれば大原家にて人のゴタゴタ語り合う声かすかきこゆ。お登和嬢その声に引かされて思わず門の外へでたり。
食道楽:秋の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
さまれる物から不二ふじの峯かすかにみえて上野谷中うへのやなかの花のこずゑ又いつかはと心ほそしむつましきかきりは宵よりつとひて舟に乗て送る千しゆと云所いふところにて船を
秋日記 (新字新仮名) / 原民喜(著)
そしてかういふ感じが順序を追つて起つてゐる背後に、物を盗まうといふ意志が、此等これらの閾の下に潜んでゐる感じより一層かすかに潜んでゐたのである。
金貨 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
二人は足を早めてにぎやかな方へ歩き出した。家の間へ這入はいって見ると、河の岸で聞くよりは音楽の声がかすかになっている。
みれん (新字新仮名) / アルツール・シュニッツレル(著)
落葉がつもってふっくりと柔い土を踏んで、上るともなく上って行くと、小鳥の声さえも聞こえぬ淋しい黒木立の中で、むせぶようなかすかな音が耳に入った。
秋の鬼怒沼 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
透谷庵主、透谷橋外の市寓にみて、近頃高輪たかなわの閑地に新庵を結べり。樹かすかに水清く、もつとも浄念を養ふに便あり。
我牢獄 (新字旧仮名) / 北村透谷(著)
その壑底には巨木が森々と茂っていて、それが吹きあげる風に枝葉をゆうらりゆらりと動かすのがかすかに見えた。
陳宝祠 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
尤も四月十五日で青空は一点の雲もなく、月は皎々こう/\冴渡さえわたり、月の光が波に映る景色というものは実に凄いもので、かすかに猿島烏帽子島金沢なども見えまする。
しをはりて七兵衛に物などくはせ、さて日もくれければ仏壇ぶつだんの下の戸棚とだなにかくれをらせ、のぞくべき節孔ふしあなもあり、さてほとけのともし火も家のもわざとかすかになし
ブラゴウエスチエンスキイ寺院の暗い中にかすかともつた石の廊下を踏んで、本堂の鉄の扉の間から遠いところの血の色で隈取られた様な壁画を透かして眺めた。
巴里より (新字旧仮名) / 与謝野寛与謝野晶子(著)
そのほのかな温みがコオロギに蘇生の想あらしめたのであろう。断続してかすかな声が聞える、というのである。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
送りけるが此喜八もとより實體じつていなる者故にこまればとて人に無心合力がふりよくなどはけつして云し事なくかすか渡世とせいにても己れが果福くわふくなりと斷念あきらめ其日を送りけるされば喜八は吉之助を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
桂川の水音かすかに聞えて、秋の夜寒よさむに立つ鳥もなき眞夜中頃まよなかごろ、往生院の門下に蟲と共に泣き暮らしたる横笛、哀れや、紅花緑葉の衣裳、涙と露にしぼるばかりになりて
滝口入道 (旧字旧仮名) / 高山樗牛(著)
酒をべさせるから此処ここを剃らせろとうその酒が飲みたさばかりに、痛いのを我慢して泣かずに剃らして居た事はかすかに覚えて居ます。天性の悪癖、誠にずべき事です。
福翁自伝:02 福翁自伝 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
例の奇癖きへきかういふ場合ばあひにもあらはれ、若しや珍石ちんせきではあるまいかと、きかゝへてをかげて見ると、はたして! 四めん玲瓏れいろうみねひいたにかすかに、またと類なき奇石きせきであつたので
石清虚 (旧字旧仮名) / 国木田独歩(著)
かしの実が一つぽとりと落ちた。其かすかな響が消えぬうちに、と入って縁先に立った者がある。小鼻こばな疵痕きずあとの白く光った三十未満の男。駒下駄に縞物しまものずくめの小商人こあきんどと云う服装なり
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
一鳥鳴いて山更にかすかなりということもあるのだから、時と人とによっては、これから日の出の朝までをはじめて夜の領分として、この辺からおもむろに枕につこうというのも多いのです。
大菩薩峠:36 新月の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
ああ、と復一はかすか嘆声たんせいをもらした。彼は真佐子よりずっと背が高かった。
金魚撩乱 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
あるいマストのように渚に突立って、くろみゆく水平線のこんもりふくれた背を、瞬きを忘れて見詰め、或は又、右手めて太郎岬たろうみさきの林を染めているかすかあかねに、少女のような感傷を覚えたり、さては疲れ果て
腐った蜉蝣 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
何か言いたいような風であったが、談話のちょを得ないというのらしい、ただ温和な親しみ寄りたいというが如き微笑をかすかたたえて予と相見た。と同時に予は少年の竿先に魚のきたったのを認めた。
蘆声 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
祈り終って声は一層かすかに遠くなり
忘れ形見 (新字新仮名) / 若松賤子(著)
枯荻かれおぎに添ひ立てば我かすかなり
五百五十句 (新字旧仮名) / 高浜虚子(著)
少し離れた森の奥から、囁く声、歩き廻わる足音、そんなものがかすかに聞え、其処に大勢の人間が、集まっていることを証明しました。
縛られているのもある、一目ひとめ見たが、それだけで、遠くの方は、小さくなって、かすかになって、ただ顔ばかり谷間たにま白百合しろゆりの咲いたよう。
春昼 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
さすがにかすかな反射はあつて、仰げば仰ぐほど暗い藍色の海のやうなは、そこに他界を望むやうな心地もせらるゝのであつた。
破戒 (新字旧仮名) / 島崎藤村(著)
モー二時間ばかりくるしんでいるが段々激烈になって当人は死ぬような騒ぎだ。そらあの苦しむ声がかすかに聞えるだろう。あんな頑固がんこな吃逆は見た事がない。
食道楽:秋の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
其中に闇をいて電光が閃き始めた。遠方で轟く雷鳴の音が何処からともなくかすかに耳に伝わる。夜目にも万象は漸く惨憺さんたんたる有様を呈して来たことが窺われる。
夜は全く声がしなくなってからでも、日当りのいいところでは、生残りの虫がかすかに声を立てることがある。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
と、何処かでかすかな物の音がしはじめた。女も貴婦人も顔の色を変えた。同時に家の中が騒がしくなった。
崔書生 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
「アア、ま、もる、くんか。わしは、ひ、ひどい、めに遭った」と、もつれる舌で、やっとそれだけ云うと、ガッカリと疲れた様に、目をふさいで、又かすかに唸り始めた。
妖虫 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
最初は口早に、いつもより声高こわだかに言っていたのが、段々末の方になると声がかすかになってしまった。
みれん (新字新仮名) / アルツール・シュニッツレル(著)
かくし申すべき私しは此谷町にすむ喜八とてかすかくらす者なるが昨日主人の若旦那を私し方へあづかり候處夫婦のたる三布蒲團みのぶとん一ツのほかはなく金の才覺さいかくなほ出來ず是非なく妻を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
午後ひるすぎに夕立をふらして去った雷鳴の名残が遠くかすかに聞えて、真白な大きな雲の峰の一面が夕日の反映に染められたまま見渡す水神すいじんもり彼方かなたに浮んでいるというような時分
夏の町 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
涙の中にかみ絞る袂を漏れて、かすかに聞ゆる一言ひとことは、誰れに聞かせんとてや、『ユ許し給はれ』。
滝口入道 (旧字旧仮名) / 高山樗牛(著)
エジツが縄をゆるながら耳をぢつとすまして「それ、釣瓶つるべが今水に着きました」としづかに言ふ時、底の底でかすかに紙の触れる様な音がした。釣瓶つるべが重いので僕も手を添へて巻上げた。
巴里より (新字旧仮名) / 与謝野寛与謝野晶子(著)
何方どっちへ出たら宿屋があるかそれさえ分らないので、人に聞こうかと幾度いくたびか傍へ寄っても何うも聞くことが出来ず、おい/\人は散り汽車の横浜さしてく音もかすかになったから
駒下駄の音も次第しだいかすかになって、浴衣ゆかた姿すがたの白いM君は吸わるゝ様にもやの中に消えた。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
ギニヴィアは倒れんとする身を、危く壁掛にたすけて「ランスロット!」とかすかに叫ぶ。王は迷う。肩にまつわる緋の衣の裏を半ば返して、右手めてたなごころを十三人の騎士に向けたるままにて迷う。
薤露行 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
岑閑しんかんとせし広座敷に何をか語る呼吸の響きかすかにしてまた人の耳に徹しぬ。
五重塔 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
登りつむればここは高台の見晴らし広く大空澄み渡る日は遠方おちかた山影さんえいあざやかに、国境くにざかいを限る山脈林の上を走りて見えつ隠れつす、冬の朝、霜寒きころ、しろかねの鎖の末はかすかなる空に消えゆく雪の峰など
わかれ (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
からだ透徹すきとほるやうにてうしろにあるものもかすかに見ゆ。