咄嗟とつさ)” の例文
八五郎は咄嗟とつさに構へを直すと、力任せに、辰三を突いたのです。爪先つまさきは三味線堀の水、間違ひもなく、その水の中に落ちたと思ひきや
咄嗟とつさに一切悟つた彼は、稜威いつたけびを発しながら、力一ぱいかしらを振つた。すると忽ち宮の屋根には、地震よりも凄まじい響が起つた。
老いたる素戔嗚尊 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
けれど、かつて私の惡徳を惹き起したことのあるはげしい怒と必死ひつしの反抗と同じあの感情に動かされて、私が咄嗟とつさに向きなほつた。
咄嗟とつさに辨ずる手際がない爲めに、やむず省略の捷徑せふけいを棄てゝ、几帳面な塗抹主義を根氣に實行したとすれば、せつの一字は何うしても免れ難い。
子規の画 (旧字旧仮名) / 夏目漱石(著)
余はおのれが信じて頼む心を生じたる人に、卒然ものを問はれたるときは、咄嗟とつさかん、その答の範囲を善くも量らず、直ちにうべなふことあり。
舞姫 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
振り向いて、あツドラ猫だ。宮城といふ受持の教師だつたが、咄嗟とつさにその名は想ひ出せず、思はず、綽名あだなを口走つた。
六白金星 (新字旧仮名) / 織田作之助(著)
礼助は否、と云ひ切れはしなかつた。彼は固いままの顔をいささか赤くして、咄嗟とつさに何とか云はなければならなかつた。
曠日 (新字旧仮名) / 佐佐木茂索(著)
罹災者りさいしやたゞちにまたみづか自然林しぜんりんからつて咄嗟とつさにバラツクをつくるので、がう生活上せいくわつじやう苦痛くつうかんじない。
日本建築の発達と地震 (旧字旧仮名) / 伊東忠太(著)
べうすなりふ幾億萬年いくおくまんねんのちには、大陸たいりくひたつくさうとするところみづで、いまも、瞬間しゆんかんのちも、咄嗟とつさのさきも、まさしかなすべくはたらいてるのであるが
星あかり (旧字旧仮名) / 泉鏡花(著)
近頃ライフの一字、文学社会に多く用ひらるゝに至れるを見て、ひそかに之を祝せんとするの外、あに敢て此大問題を咄嗟とつさの文章にて解釈することをせんや。
人生の意義 (新字旧仮名) / 北村透谷(著)
咄嗟とつさに、孝一は刎ね起きた。と、両手で頭をかゝへて、腰をまげ、猫のやうに素早く外へ飛び出してしまつた。
父の帰宅 (新字旧仮名) / 小寺菊子(著)
豐平川とよひらがはの鐵橋がよからう。」義雄は咄嗟とつさの間に答へたが、自分の足は既にその方へ向いてゐた。
泡鳴五部作:05 憑き物 (旧字旧仮名) / 岩野泡鳴(著)
平生いかに眼識の明を誇つて居る自分でも、此咄嗟とつさの間には十分精確な判断を下す事は出来ぬ。
雲は天才である (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
咄嗟とつさに、ゆき子が顔を動かした。加野の唇はゆき子の頬に突きあたつて、あへなく離れた。
浮雲 (新字旧仮名) / 林芙美子(著)
併し彼は咄嗟とつさの間に「あゝ世には手品師といふ職業もあるんだな。」と考へついた。——
手品師 (新字旧仮名) / 久米正雄(著)
父は私が遊び仲間から黒坊主と呼ばれてゐることを知つてゐたのだ。私は気も顛倒てんたうして咄嗟とつさに泥んこでよごれた手で鍬を振り上げ、父の背後に詰寄つて無念骨髄の身がまへをした。
途上 (新字旧仮名) / 嘉村礒多(著)
周三は、咄嗟とつさいて來たこの男の義侠心ぎけふしんに對し、ひそかに昂奮し、感謝した。長い間ねらつてゐた脱走の機會が、こんな場合に突然めぐつて來るとは夢にも思はなかつたからである。
天国の記録 (旧字旧仮名) / 下村千秋(著)
私は咄嗟とつさに、提灯を持ち換へるいとまもなく、持つた儘の手を突出して防ぎ止めた。
乳の匂ひ (新字旧仮名) / 加能作次郎(著)
「おつう」と一せい呶鳴どなつてじやうげきした勘次かんじ咄嗟とつさつぎことばせなかつた。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
咄嗟とつさおくれを天に叫び、地にわめき、流にもだえ、巌に狂へる貫一は、血走るまなこに水を射て、此処ここ彼処かしここひし水屑みくづもとむれば、まさし浮木芥うきぎあくたの類とも見えざる物の、十間じつけんばかり彼方あなたを揉みに揉んで
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
竹本たけもと」や「常磐津ときはづ」を初めすべての浄瑠璃じやうるりは立派に複雑な感激をあらはして居るけれど、「音楽」から見れば歌曲と云はうよりは楽器を用ゐる朗読詩とも云ふべく、咄嗟とつさの感情に訴へるにはひやゝか過ぎる。
黄昏の地中海 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
私はあの咄嗟とつさの際の藤枝の観察の鋭いのに感心した。
殺人鬼 (新字新仮名) / 浜尾四郎(著)
咄嗟とつさきふにはおもうかばなかつた。
二人はそれでも負けずおとらずぢ合ひました。あまりに咄嗟とつさの出來事で、遠ざけられた近習達が、驅け付ける暇もなかつたのです。
いや、その外に水口の障子ががらりと明けられたのも同時だつた。乞食は咄嗟とつさに身構へながら、まともに闖入者ちんにふしやと眼を合せた。
お富の貞操 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
それから博士は、細君の話を聞いた時に、この意外な出来事と細君の妊娠との関係に就いて、咄嗟とつさの間に思つた事のあるのを思ひ出した。それはかうである。
魔睡 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
その咄嗟とつさ失錯しつさくをどういふ風にして繕つたか——ロチスター氏の動靜どうせいが、私にとつて重大な關係を持つ理由のある事柄であると、かりにも思ふその思ひ違ひを
咄嗟とつさの間に渠は、主婦おかみが起きて来るのぢやないかと思つて、ビクリとしたが、唯寝返りをしただけと見えて、立つた気色けはひもせぬ。ムニヤムニヤと少年が寝言を言ふ声がする。
病院の窓 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
友達の手前は養子に行つたのだと言ひつくらはうと咄嗟とつさ智慧ちゑをめぐらした。
六白金星 (新字旧仮名) / 織田作之助(著)
たゞそれ咄嗟とつさあひだに、まへ問答もんどうつながりく、くちなかつたのである。
それから (新字旧仮名) / 夏目漱石(著)
してや平生激昂しやすき厭世家の想像は、この誠実なる恋愛に遭ひてもろくも咄嗟とつさの間に、奇異なる魔力に打ち勝たれ、根もなき希望をかもし来り、全心を挙げて情の奴とするは見易き道理なり。
厭世詩家と女性 (新字旧仮名) / 北村透谷(著)
……其處そこで、昨日きのふ穿いたどろだらけの高足駄たかあしだ高々たか/″\穿いて、透通すきとほるやうな秋日和あきびよりには宛然まるでつままれたやうなかたちで、カラン/\と戸外おもてた。が、咄嗟とつさにはまぼろしえたやうで一疋ひとつえぬ。
番茶話 (旧字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
咄嗟とつさに荒尾の視線は転じて、猶語続かたりつづくる宮がおもてかすりぬ。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
全く咄嗟とつさの間の引越しだつた。
崖の下 (旧字旧仮名) / 嘉村礒多(著)
咄嗟とつさの間にお二人で相談して、刀を隱して格子戸を外し、曲者が外から入つて父上を害めたことに取繕とりつくろつたのです。それに間違ひはないでせうな
咄嗟とつさにかう云ふ自省を動かした彼は、あたかも内心の赤面を隠さうとするやうに、慌しく止め桶の湯を肩から浴びた。
戯作三昧 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
咄嗟とつさの間に見極めると、年の頃五十六七、實體らしい老爺おやぢさんで、どう間違つても身投などをするがらとは見られません。
しかしをとこ咄嗟とつさに、わたしを其處そこ蹴倒けたふしました。丁度ちやうどその途端とたんです。わたしはをつとなかに、なんともひやうのないかがやきが、宿やどつてゐるのをさとりました。
藪の中 (旧字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
お越は咄嗟とつさの間に石垣をけ降りて、其處につないだ小舟に飛乘り、さをを突つ立てて、浮きつ沈みつする子供に近づき、危ふいところで引上げました。
新公は咄嗟とつさに身をかはさうとした。が、傘はその途端に、古湯帷子ゆかたの肩を打ち据ゑてゐた。この騒ぎに驚いた猫は、鉄鍋を一つ蹴落しながら、荒神くわうじんの棚へ飛び移つた。
お富の貞操 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
その綱は有合せの短かいなはを三本も結び合せたもので、結び目が一寸見ると男結びに似たはた結びだつたことなどが、咄嗟とつさの間に平次の注意をひきます。
女の目も亦猫とすれば、のどを鳴らしさうにこびを帯びてゐる。主人は返事をする代りにちよいと唯点頭てんとうした。女は咄嗟とつさに(!)勘定台の上へ小型のマツチを一つ出した。
あばばばば (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
それに、平次の早い眼は、娘の帶から裾へかけて、斑々はん/\と血潮の附いてゐるのを、咄嗟とつさの間に見て取つたのです。
遠藤が次の間へ踏みこまうとすると、咄嗟とつさに印度人の婆さんは、その戸口に立ちふさがりました。
アグニの神 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
新婿の彌八などは、半身浴びるやうな血を受けて、咄嗟とつさの間に着換きがへをしたほどのひどい姿になつてゐたのです。
芭蕉の床を囲んでゐた一同の心に、いよいよと云ふ緊張した感じが咄嗟とつさに閃いたのはこの時である。
枯野抄 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
死骸には傷のあとはなく、物馴れた平次の眼には、これは溺れたものではなく、首の大動脈を激しくたれて、咄嗟とつさに死んだことは爭ふ餘地もありません。
途方に暮れた金花は頬を抑へて、微笑する気力もなくなつてゐたが、咄嗟とつさにもうかうなつた上は、何時までも首を振り続けて、相手が思ひ切る時を待つ外はないと決心した。
南京の基督 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
お菊の後ろから近づいて、何か聲をかけながら、咄嗟とつさに剃刀をのどへ廻し、肩を押へてやつた——と見たのでせう。
彼は咄嗟とつさに了解した。十戒を破つたモツツアルトはやはり苦しんだのに違ひなかつた。しかしよもや彼のやうに、……彼は頭を垂れたまま、静かに彼の卓子テエブルへ帰つて行つた。
或阿呆の一生 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)