鑑真がんじん)” の例文
また心き事はべりき、その大臣の娘おわしき、いろかたちめでたく世に双人ならぶひとなかりき、鑑真がんじん和尚の、この人千人の男に逢ひ給ふ相おわすとのたまはせしを
東大寺の大仏開眼かいげんの日からかぞえると七年目、天平てんぴょうもすでに末期の宝字三年、鑑真がんじん聖武しょうむ天皇の御冥福めいふくを祈りつつ草創した寺と伝えられる。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
日本の肖像彫刻を考える時誰でもいちばん最初に頭に出て来るのは奈良朝に於ける唐招提寺の鑑真がんじん大和上の坐像であろう。
本邦肖像彫刻技法の推移 (新字新仮名) / 高村光太郎(著)
発見といふのは、寺の敷地が伝説通り新田部にたべ親王の邸跡やしきあとに相違なかつたとか、開基の鑑真がんじん和尚が胃病患者だつたとかいふ、そんな無益な問題では無い。
しかし、素通りを縁として、井上靖の『天平のいらか』を速読した。かねて、唐招提寺の創立者たる盲目の鑑真がんじん和上の事を知りたいと思っていたためである。
冬の法隆寺詣で (新字新仮名) / 正宗白鳥(著)
唐から来た鑑真がんじんが唐招提寺に一つの中心を造ったのは、大仏の開眼供養よりは六七年も後のことで、ここに天平時代の後期が始まるのであるが、同じく玄宗げんそう時代の流風を伝えたにしても
古寺巡礼 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
この鑑真がんじん和尚にもう少し動きを与えたのが法隆寺夢殿にあるその創建者行信ぎょうしん僧都の木骨夾紵きょうちょ像である。如何にも傑物らしい風格が闊達に出ている。
本邦肖像彫刻技法の推移 (新字新仮名) / 高村光太郎(著)
鑑真がんじんの率いて来た唐仏師の影響下に造顕されたと伝えられるが、それは別として、私はいつも千手観音を拝するたびに起す一つの疑問をここで述べておこう。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
鑑真がんじんとその徒が困難な航海の後に九州に着いたのは、大仏開眼供養の翌年の末であったといわれている。彼らが京師けいしに入る時の歓迎はすばらしいもので、当時の高官高僧は皆その接待に力をつくした。
古寺巡礼 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)