法諡ほうし)” の例文
摂津国屋の墓石には、遠く祖先にさかのぼって戒名が列記してあるので、香以の祖父から香以自身までの法諡ほうしは下列の左の隅に並んでいる。
細木香以 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
わたくしは大沼家についてその姓氏を問うたがこれを詳にすることを得なかった。三田みた薬王寺の過去帳には忌辰と法諡ほうしとを載するのみである。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
明治三年九月に香以は病に臥して、十日に瞑目めいもくした。年四十九。法諡ほうしは梅余香以居士。願行寺なる父祖の塋域えいいきに葬られた。遺稿の中に。
細木香以 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
はじめ飯沼弘経寺の梅痴上人がなかだちをなしたという事をわたくしは聞いたのみである。三田台裏町妙荘山薬王寺に葬られて積信院一乗妙道大姉の法諡ほうしをおくられた。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
二人は新橋から汽車に乗って、鎌倉へ往った。勝三郎はこのゆうべに世を去った。年は三十八であった。法諡ほうし蓮生院薫誉智才信士れんしょういんくんよちさいしんしという。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
安政五年戊午七月十一日(アルイハ十五日)、鷲津毅堂の妻佐藤氏みつが時疫の暴瀉ぼうしゃかかって没した。谷中三崎さんさきの天竜院に葬り法諡ほうしを恭堂貞粛大姉となされた。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
そして京水は天保七年十一月十四日に、五十一歳で歿したのである。法諡ほうしして宗経軒そうけいけん京水瑞英居士ずいえいこじという。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
抽斎の父允成ただしげである。その間と左とに高祖父と父との配偶、夭折ようせつした允成のむすめ二人ふたり法諡ほうしが彫ってある。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
河竹新七の名はしばらく立ってから、三代目桜田治助の勧に依っていだ。嘉永元年六月二十七日に、子之助の祖父伊兵衛が七十余歳で歿した。法諡ほうしは繁誉宝寿徳昌善士である。
細木香以 (新字新仮名) / 森鴎外(著)