村上むらかみ)” の例文
平安時代の御世に於て、第六十代醍醐だいご天皇第六十二代村上むらかみ天皇は、英明の質を以て、親しくまつりごとを聞し召され、御世は泰平で文化はいよ/\栄えた。
二千六百年史抄 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
男子村おのこむらへ出まして村上むらかみへかゝりまして、市城いちしろから青山伊勢町あおやまいせまち中の条へ掛ると日は暮れかゝりまして、木村屋きむらやで小休みに成りますから十分手当をして遣り
霧陰伊香保湯煙 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
村上むらかみがここまで話して来た時、新にカッフェへはいって来た、友人らしい三四人が、わたしたちの卓子テーブルへ近づきながら、口々に彼へ挨拶あいさつした。私は立ち上った。
妙な話 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
これはいつ頃からあったか判りませぬけれども、村上むらかみ天皇の頃には既に世間に行われておったということは明らかな証拠があります。その全文は次の通りです。
古代国語の音韻に就いて (新字新仮名) / 橋本進吉(著)
老大納言卒去そっきょの翌年に左大臣時平が死に、それから約四十年の間に時平の一族が次々に滅んだことは既に記した通りであるが、天子は醍醐だいご朱雀すざくを経て村上むらかみとなり
少将滋幹の母 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
三面谷は越後の村上むらかみ領では有るのだけれど、又米沢からの支配をも受けているので、内藤ないとう家からも飯米を与えるが、上杉家からも毎年二十俵を、雪が積って初めて道が出来るのを待って
壁の眼の怪 (新字新仮名) / 江見水蔭(著)
そうしてこれを歴史的に見ますと、平安朝に入るとその例外がますます多くなって来て、そうして醍醐だいご村上むらかみ御代みよになりますと、かような区別のあった痕迹も見えないのであります。
古代国語の音韻に就いて (新字新仮名) / 橋本進吉(著)
村上むらかみ御門みかど第七の王子、二品中務親王にほんなかつかさしんのう、六代の後胤こういん仁和寺にんなじ法印寛雅ほういんかんがが子、京極きょうごく源大納言雅俊卿みなもとのだいなごんまさとしきょうの孫に生れたのは、こう云う俊寛しゅんかん一人じゃが、あめしたには千の俊寛、万の俊寛、十万の俊寛
俊寛 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
ある冬のわたしは旧友の村上むらかみと一しょに、銀座ぎんざ通りを歩いていた。
妙な話 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)