戊午ぼご)” の例文
十一人中に「法譽知性大※ちしやうだいし、寛政十年戊午ぼご八月二日」と云ふ人がある。十代の實祖母としてあるから、了蓮の祖母であらう。
寿阿弥の手紙 (旧字旧仮名) / 森鴎外(著)
安政五年戊午ぼご 正月、大いに攘夷じょうい論を唱う。閣老掘田正篤まさひろ京都に遊説ゆうぜいす。三月、大詔たいしょう煥発かんぱつ。四月、井伊大老たいろうとなる。六月、勅許ちょっきょたずして、米国条約の調印をなす。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
戊午ぼご大獄の大弾圧も、雲浜が組織した社会的勢力の礎石部分には、手も触れなかった。
志士と経済 (新字新仮名) / 服部之総(著)
ワレ病ヲ輿シテ帰ラント。先生遂ニ病ヲ尾ノ丹羽ノ里ニ養フ。寛政戊午ぼごノ冬十月十七日家ニ終ル。年ヲ受クルコト七十有三。同月二十日日待塚ひまちづかノ松林ノ中ニ葬ル。墳ハ高四尺ひそか馬鬣封ばりょうほうニ擬ス。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
枳園きえんはこの年十二月五日に徳川家茂いえもちに謁した。寿蔵碑には「安政五年戊午ぼご十二月五日、初謁見将軍徳川家定公」と書してあるが、この年月日ねんげつじつは家定がこうじてから四月しげつのちである。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
ただ『幽室文稿』は、安政五年戊午ぼごの正月より、六年己未きびの五月、殉難者の血を小塚原こづかばらそそがんがために江戸に檻送せらるるまで、一年半の記録なれば、その記事の詳略精粗は同日の論にあらず。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
又此列の最右翼に居る「範叟道規庵主はんそうだうきあんしゆ、元文三年戊午ぼご八月八日」
寿阿弥の手紙 (旧字旧仮名) / 森鴎外(著)