恒良つねなが)” の例文
尊良たかなが恒良つねなが、成良、義良、宗良、懐良かねながなどの諸皇子たれひとり人生を完うされたお方はない。雑兵に交じって火中を馳け歩いた皇子もある。
美しい日本の歴史 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
皇太子恒良つねなが親王、皇子尊良たかなが親王を奉ぜしめて、北陸経営に当らしめ、又陸奥むつの北畠顕家あきいへを西上せしめて、京都の恢復を計り給うたが、顕家は延元三年五月、摂津の石津いしづで戦死し、新田義貞は
二千六百年史抄 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
しかも年上の親王たちをもさしおいて、廉子の産んだ恒良つねながが、皇太子の位につき、はやくも次代の天皇に擬せられているなど
すなわちその軍中には、皇太子恒良つねなが、親王尊良たかながのおふたりを奉じ、洞院とういん実世さねよ、同少将定世、三条泰季やすすえなども付きしたがい、総勢は約七千余騎。
私本太平記:12 湊川帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「わらわだけでなく、このさい東宮(皇太子恒良つねなが)にもご退位をねがって、この母共々、争いの外へ身を避けることが世のためとおもわれますから」
そちは恒良つねなが親王しんのう尊良たかながとを陣中に奉じて北国にて再起をはかれ。恒良に仕えることのごとくにしてくれよ。
私本太平記:12 湊川帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
の報が、斯波しば高経とこう師泰もろやすとの連名で、早打ちされてくるし、ひきつづいて、落城のさい、足利勢に捕われた後醍醐の皇太子恒良つねながが、現地から都へ、押送おうそうされて来た。
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
いや、御存知ないといえましょう。——さきに北陸へ落ちた義貞の軍へ、とくに皇太子恒良つねなが
私本太平記:12 湊川帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
……また、しいて、み心のまま、わらわの産んだ恒良つねなが(皇太子)を帝位みくらいにつけまいらせても、いまの宮将軍のご勢威では、決してその下にお服しなさることはございますまい。