光尚みつひさ)” の例文
高見権右衛門が討手うっての総勢を率いて引き上げて来て、松野右京のやしきの書院の庭で主君の光尚みつひさえっして討手の状況を言上ごんじょうする一段のところで
江戸参勤中で遠江国とおとうみのくに浜松まで帰ったが、訃音ふいんを聞いて引き返した。光貞はのち名を光尚みつひさと改めた。二男鶴千代つるちよは小さいときから立田山の泰勝寺たいしょうじにやってある。
阿部一族 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
元和げんな五年御当代光尚みつひさ公御誕生遊ばされ、御幼名六丸君ろくまるぎみと申候。景一は六丸君御附おつきと相成り候。元和げんな七年三斎公御致仕ちし遊ばされ候時、景一も剃髪ていはついたし、宗也そうや名告なのり候。
興津弥五右衛門の遺書 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
だから忠利の心では、この人々を子息光尚みつひさの保護のために残しておきたいことは山々であった。またこの人々を自分と一しょに死なせるのが残刻ざんこくだとは十分感じていた。
阿部一族 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
床の間に並べ有之候御位牌いはい三基は、某が奉公つかまつりし細川越中守忠興ただおき入道宗立三斎殿御事松向寺殿をはじめとし、同越中守忠利ただとし殿御事妙解院殿、同肥後守光尚みつひさ殿御三方に候えば
「そちが志は満足に思うが、それよりは生きていて光尚みつひさに奉公してくれい」
阿部一族 (新字新仮名) / 森鴎外(著)