野洲やす)” の例文
そのあたりは山の上から眺めても湖水が最も狹められてゐる處で、向ふ側から長く突き出して來てゐる遠洲は野洲やす川の吐け口になつてゐる。
湖光島影:琵琶湖めぐり (旧字旧仮名) / 近松秋江(著)
不破から西は、一瀉千里いっしゃせんりの行軍だった。この日すでに、足利軍五千は、湖畔の野洲やすの大原をえんえんと急いでいた。
私本太平記:08 新田帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
野洲やすから比良比叡の山ふもとを迂廻して来たか、その詮索はひとまずさしおいて、もし徒歩でテクって来たとすれば——道庵先生は老いたりといえども
大菩薩峠:38 農奴の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
大和の高市は天の高市、近江の野洲やす川は天の安河と関係あるに違いない。天の二上ふたかみは、地上到る処に、二上山を分布(これは逆に天にのぼしたものと見てもよい)
水の女 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
徒歩かちにておぼつかなくも辿り辿りて、八月二日のあかつきに野洲やすの河原にさしかゝると、まだ明けやらぬ朝霧のあひだより、雜鞍ざふくら置いたる馬を追うて來る者がござつた。
佐々木高綱 (旧字旧仮名) / 岡本綺堂(著)
滋賀縣の野洲やす川だともいう。明日香川の古名か。
ボンスケドリ 滋賀県野洲やす
もともと伊賀山脈に沿う近江路の野洲やす篠原しのはらあたりは野伏の巣といってよい。平常はうららかな湖畔の景をみせているが、時乱に敏感で、もう六波羅のやぶれもよく知っていたのである。
私本太平記:08 新田帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
とにかく堅田かただ野洲やす川河口の長沙以南の湖畔の景致は産業文明のために夥しく損傷されて、昔の詩人騷客を悦ばしめた風景の跡は徒に過去の夢となつてしまつてゐる。水も底が泥で汚く濁つてゐる。
湖光島影:琵琶湖めぐり (旧字旧仮名) / 近松秋江(著)
瀬田の唐橋からはしを渡って草津、守山、野洲やす、近江八幡から安土、能登川、彦根、磨針すりはり峠を越えて、番場、さめ、柏原——それから左へ、海道筋をそれて見上げたところの、そらこの大きな山が胆吹山だ
古来、堅田や焼津やいづには、叡山勢力下の船持ちがたくさんに部落していて“堅田湖族”などと世によばれていたし、同様な水辺部族は、湖南の野洲やす川や能登のと川口にもあまたいたものにちがいない。
私本太平記:10 風花帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)