豊前守ぶぜんのかみ)” の例文
旧字:豐前守
ために雲母坂きららざかでは、こう豊前守ぶぜんのかみ師久もろひさ)以下、一族、部将格二十何名かを、いちどにうしなうなどの大難戦もあった。
私本太平記:12 湊川帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
縫は享和二年に始めて須磨すまというむすめを生んだ。これは後文政二牛に十八歳で、留守居るすい年寄としより佐野さの豊前守ぶぜんのかみ政親まさちか飯田四郎左衛門いいだしろうざえもん良清よしきよに嫁し、九年に二十五歳で死んだ。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
彼等の巨魁由井正雪は、既に駿府へ発した後で、牛込榎町の留守宅には佐原重兵衛が籠もっていたが、ここへ取り詰めたのは堀豊前守ぶぜんのかみで、同勢は二百五十人であった。
正雪の遺書 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
物臭太郎では勿体もったいない——新たに歌左衛門という名を、豊前守ぶぜんのかみがつけてくれる。
大菩薩峠:26 めいろの巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
木村長門ながと薄田隼人生すすきだはいとのしょうら、名ある大将は、六日の戦いに多くは覚悟の討死を遂げてしまって、ただ真田左衛門さえもん長曾我部盛親ちょうそがべもりちかや、毛利豊前守ぶぜんのかみなどが、最後の一戦を待っているばかりであった。
忠直卿行状記 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
阿部伊勢守正弘の家来伊沢磐安いさわばんあん黒田くろだ豊前守ぶぜんのかみ直静なおちかの家来堀川舟庵ほりかわしゅうあん、それから多紀楽真院らくしんいん門人森養竹もりようちくである。磐安は即ち柏軒で、舟庵は『経籍訪古志』のばつに見えている堀川せいである。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
追いすがって、支えているのは、高家衆の品川豊前守ぶぜんのかみや、大友近江守おうみのかみたちであった。
新編忠臣蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)