焼津やいづ)” の例文
旧字:燒津
笹の関からすこし離れた焼津やいづの浜に、中川藩のお舟蔵があって、久住はそこのお荷方下見廻りという役の木っ葉武士なのだ。
彼がいかにその妻を熱愛していたかは、焼津やいづの旅先から、留守居るすいの妻に送った手紙によく現われている。
つたえ聞いて、近郷の比良ひら焼津やいづ、そのほかの山家などから、お味方にと、山へ馳せのぼって来る郷士らも多かった。彼らにすれば、野望を賭ける「時こそ」だった。
私本太平記:04 帝獄帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
東海道ならば由比ゆい蒲原かんばら興津おきつの山々、焼津やいづに越える日本峠のように、汽車の響きと煙で小鳥をおびやかし、さらにいろいろの方法をもって捕獲を試みる所が、年を追うて増すばかりである。
雪国の春 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
文久二年四月十七日、伊豆国賀茂郡松崎村いずのくにかものこおりまつざきむらの鰹船が焼津やいづの沖で初鰹を釣り、船梁ふなばりもたわむほどになって相模灘さがみなだを突っ走る。八挺櫓はっちょうろで飛ばしてくる江戸の鰹買船かつおかいぶねに三崎の沖あたりで行きあうつもり。
顎十郎捕物帳:13 遠島船 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
古来、堅田や焼津やいづには、叡山勢力下の船持ちがたくさんに部落していて“堅田湖族”などと世によばれていたし、同様な水辺部族は、湖南の野洲やす川や能登のと川口にもあまたいたものにちがいない。
私本太平記:10 風花帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)