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書写山
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しょしゃざん
ふりがな文庫
“
書写山
(
しょしゃざん
)” の例文
秀吉は、何を聞いても、
一笑
(
いっしょう
)
に附していた。そして官兵衛、半兵衛の両参謀のすすめに従って、三月初旬、その本陣を、加古川から
書写山
(
しょしゃざん
)
のうえに移した。
新書太閤記:05 第五分冊
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
いや、
一昨年
(
おととし
)
、
書写山
(
しょしゃざん
)
に
詣
(
もう
)
でた折、東光房の
阿闍梨
(
あじゃり
)
を訪ねて、その折、給仕に出た
稚子
(
ちご
)
が、後で、それと聞かされて、勿体ない茶を
喫
(
の
)
んだわと、涙がこぼれた。
親鸞
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
書写山
(
しょしゃざん
)
を本営とする秀吉の戦法は、いわゆる定石どおりにその
外郭
(
がいかく
)
の敵を一城ずつ攻めて行った。
黒田如水
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
幼少、播州の法華寺に
習
(
まな
)
び、中頃は
賀西
(
かさい
)
の北条寺や
書写山
(
しょしゃざん
)
にも
数年
(
すねん
)
いて、修行を積んだ。
私本太平記:03 みなかみ帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
一時、都を退いて、陣容をたて直すときめ、
義詮
(
よしあきら
)
や師直と共に、尊氏は丹波へ走った。そしてまた播磨の
書写山
(
しょしゃざん
)
へ移り、そこで
石見
(
いわみ
)
から馳せつけて来た
高
(
こう
)
ノ
師泰
(
もろやす
)
の一軍とひとつになった。
私本太平記:13 黒白帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
▼ もっと見る
南に
飾磨
(
しかま
)
の津をいだき、
舟行
(
しゅうこう
)
の便はいうまでも候わず、
高砂
(
たかさご
)
、
屋島
(
やしま
)
などへの通いもよく、市川、加古川、
伊保川
(
いほがわ
)
などの河川をめぐらし、
書写山
(
しょしゃざん
)
、
増位山
(
ますいやま
)
などの
嶮
(
けん
)
を負い、中国の要所に
位
(
くらい
)
し
新書太閤記:06 第六分冊
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
「太兵衛、馬を貸せ。そちの
書写山
(
しょしゃざん
)
を」
黒田如水
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
『——父上、
書写山
(
しょしゃざん
)
が見えます』
新編忠臣蔵
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
名馬
書写山
(
しょしゃざん
)
黒田如水
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
“書写山”の解説
書写山(しょしゃざん)は、兵庫県姫路市にある山。書寫山とも。
西播丘陵県立自然公園に含まれており、兵庫県の鳥獣保護区(特別保護地区)に指定されているほか、ひょうごの森百選、ふるさと兵庫50山に選定されている。書写山の一部には原生林が残る。山上には西国三十三所の圓教寺がある。
室町時代に玄棟によって成立した説話集の三国伝記には三湖伝説の元になったと思われる説話が記載されており、そこでは書写山周辺の釈難蔵という法華の持者が十和田湖の主になった物語の起源が語られている。
(出典:Wikipedia)
書
常用漢字
小2
部首:⽈
10画
写
常用漢字
小3
部首:⼍
5画
山
常用漢字
小1
部首:⼭
3画
“書写”で始まる語句
書写
書写部屋