河内かはち)” の例文
これはけぬ河内かはちへ越さうとして、身も心も疲れ果て、最早もはや一歩も進むことの出来なくなつた平八郎父子ふしと瀬田、渡辺とである。
大塩平八郎 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
自身の行く山の名も村の名も私はよく知らないのです。今でも知りません。いづれ国境の山なのでせうが、紀州境ひなのか、河内かはち境ひなのか知りませんでした。
私の生ひ立ち (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
行掛ゆきがけの駄賃にしたのだか初対面の手土産てみやげにしたのだか、常陸の行方なめかた河内かはち郡の両郡の不動倉のほしひなどといふ平常は官でも手をつけてはならぬ筈のものを掻浚かつさらつて
平将門 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
はじめて河内かはち南方なんぽう御陵ごりようがつくられ、ぎの仁徳天皇にんとくてんのうから三代さんだいばかりは、むかし河内かはちくにであつたがいま和泉いづみくに北方ほつぽうさかひ附近ふきん御陵ごりようまうけられることになりました。
博物館 (旧字旧仮名) / 浜田青陵(著)
ころ近國きんごく知事ちじおもひものりました……めかけとこそへ、情深なさけぶかく、やさしいのを、いにしへ國主こくしゆ貴婦人きふじん簾中れんちうのやうにたゝへられたのがにしおふなか河内かはち山裾やますそなる虎杖いたどりさと
雪霊記事 (旧字旧仮名) / 泉鏡花(著)
楠木正成まさしげが、勅命に依つて蹶起し、河内かはち赤坂城あかさかじやうに菊水の旗を飜したのは、この時である。
二千六百年史抄 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
狐火やいづこ河内かはちの麦畠
俳人蕪村 (新字新仮名) / 正岡子規(著)
四人は翌二十日に河内かはちさかひつて、食を求める外には人家に立ち寄らぬやうに心掛け、平野川に沿うて、間道かんだうを東へ急いだ。
大塩平八郎 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
近江あふみくに山越やまごしに、づるまでには、なか河内かはち芽峠めたうげが、もつとちかきはまへに、春日野峠かすがのたうげひかへたれば、いたゞきくもまゆおほうて、みちのほど五あまり、武生たけふ宿しゆくいたころ
雪の翼 (旧字旧仮名) / 泉鏡花(著)
しかしそれには関りもない広い快い田圃たんぼはどの街筋の出口にもかかつた土橋や石橋の直ぐ向うに続いて居ます。河内かはち生駒山いこまやま金剛山こんがうざんの麓まで眺める目はものに遮られません。
私の生ひ立ち (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
たとへば河内かはちにある聖徳太子しようとくたいし御墓おはかには、太子たいし母后ぼこうと、太子たいしきさき三人さんにん御棺おかんれてあるとのことです。またなかには死者ししや石棺せきかんでなく木棺もくかんにいれてはうむつた石室せきしつおほくあります。
博物館 (旧字旧仮名) / 浜田青陵(著)
中氏は昔瓜上うりかみと称し、河内かはちの名族であつた。承応二年和泉国いづみのくに熊取村五門にうつつて、世郷士よゝがうしを以て聞えてゐた。此中氏の分家に江戸本所住の三千六百石の旗本根来ねごろ氏があつた。
津下四郎左衛門 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
いままをした天皇樣てんのうさま御陵ごりようはたいてい大和やまとから河内かはちなどにありますが、天智天皇御陵てんちてんのうごりよう山城やましろくに京都きようとひがしほうにありまして、四角しかくつか上部じようぶまるくなつてゐるといふことであります。
博物館 (旧字旧仮名) / 浜田青陵(著)
猛犬まうけんは、——土地とちではまだ、深山みやまにかくれてきてことしんぜられてます——雪中行軍せつちうかうぐんして、なか河内かはちやなけようとした冒險ばうけんに、教授けうじゆ二人ふたり某中學生それのちうがくせいが十五にん
雪霊続記 (旧字旧仮名) / 泉鏡花(著)
父の陰謀の情を知つてゐた彦右衛門とは遠島ゑんたう、安田と杉山を剃髪させた同人どうにんの伯父、河内かはち大蓮寺たいれんじの僧正方しやうはう、西村の逃亡を助けた同人の姉婿あねむこ、堺の医師寛輔くわんぽの二にんとは追放になつた。
大塩平八郎 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
十六七ねんぎました。——唯今たゞいま鯖江さばえ鯖波さばなみ今庄いましやうえきが、れいおときこえた、なか河内かはち芽峠めたうげ尾峠をたうげを、前後左右ぜんごさいうに、たかふかつらぬくのでありまして、汽車きしやくもうへはしります。
雪霊記事 (旧字旧仮名) / 泉鏡花(著)