旧字:癡
山木は痴のように口を開いて茫失していたが、やがて眼性の悪い細い瞼の間からポロポロ涙をこぼしながら力任せに踏絵を抱きしめ
といいながら車窓から首を突出して、服部時計店の時計台を見上げていたが、何を見たのか、ア、ア、ア、と息をひいて痴のように時計台を指さす。
まあ篤文家とでもいつたやうな痴の一念で生きて行きたいと思つてゐるのですが、どうも、つまらぬ虚栄などもあつて、常識的な、きざつたらしい事になつてしまつて、ものになりません。
“痴(癡)”の解説
癡(痴、ち、巴: 梵: moha)は、仏教における煩悩のひとつで、無知・蒙昧を指す。。時には無明(Avidyā )と同義である。別名を愚癡(ぐち、愚痴)、我癡、また無明ともいう。
癡は貪、瞋と共に、渇愛につながる要素(三毒、三不善根)だとされて、それは生存の輪である十二因縁の一部となっている。そのシンボルは豚であり、チベットの六道仏画では中心に描かれている。
上座部仏教における不善心所のひとつ。
説一切有部の五位七十五法のうち、大煩悩地法の一つ。
大乗仏教アビダルマにおける六つの根本煩悩のひとつ。
(出典:Wikipedia)
癡は貪、瞋と共に、渇愛につながる要素(三毒、三不善根)だとされて、それは生存の輪である十二因縁の一部となっている。そのシンボルは豚であり、チベットの六道仏画では中心に描かれている。
(出典:Wikipedia)