東夷あずまえびす)” の例文
京都公家くげの官僚なる大江広元の輩までが、鎌倉に下ってその東夷あずまえびす家人けにんとなった。ここに至っては彼らはもはや決して賤民ではない。
宇都野さんの歌はどう見ても大宮人の歌ではない、何処かしら東夷あずまえびすとでも云いたいような処があると私は思う。その点を私は面白いと思う。
宇都野さんの歌 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
前者はきはどき場合にくつらねたりといふ事に感じ、後者は思ひがけなき東夷あずまえびすの風流に感じたるに外ならじ。
人々に答ふ (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
東夷あずまえびすの住む草の武蔵の真中の宮柱に、どうやら九重ここのえの大宮の古き御殿の面影おもかげがしのばれて、そこらあたりに須磨や明石の浦吹く風も漂い、刈り残された雑草のたぐいまでが
大菩薩峠:21 無明の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
ついに国の名の武蔵の文字と通わせて、日本武尊やまとたけるのみこと東夷あずまえびすどもを平げたまいて後甲冑よろいかぶとの類をこの山に埋めたまいしかは、国を武蔵と呼び山を武甲というなどと説くものあるに至れり。
知々夫紀行 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
東夷あずまえびすは、もと関東地方に蝦夷住みて、勇猛なりし事実より、これらの地に割拠せる武士を目して、後世名づけたる称号ならむか。
武士を夷ということの考 (新字新仮名) / 喜田貞吉(著)
東夷あずまえびすと呼ばれた鎌倉幕府が、都の文化を輸入し、都人を使役した様に、その富にまかせて里の文化の輸入をもしようし、気の利いた里人をも使役して大尽になりすます。
或る公家くげから東夷あずまえびすと呼ばれても、実力のあるところに天下の権は帰する。ここに於いてさらにその頼朝の家人けにんたる北条・梶原・畠山等の輩は、一躍して大名になってしまった。
その勇敢なる東国武士を東夷あずまえびすと称せんこと、単にその語のみよりして解すべく、さらにその地にかつて蝦夷が住みたりとの事実を提供して、廻り遠き説明を下すを要せざるに似たり。
武士を夷ということの考 (新字新仮名) / 喜田貞吉(著)
鎌倉武士の事を「東夷あずまえびす」と云っております。