一朶いちだ)” の例文
あまり結構でない煙草の煙が、風のない庭にスーッと棚引くと、形ばかりの糸瓜の棚に、一朶いちだの雲がゆらゆらとかかる風情でした。
悚然ぞっとして、向直むきなおると、突当つきあたりが、樹の枝からこずえの葉へからんだような石段で、上に、かやぶきの堂の屋根が、目近まぢか一朶いちだの雲かと見える。
春昼 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
なんという寺院か知らないが、山門があり堂閣がそばだち、五重の塔の腰をつつんだ一朶いちだの桜が満地を落花のに染めている。
平の将門 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
寒く潤沢じゅんたくを帯びたる肌の上に、はっと、一息懸ひといきかけたなら、ただちにって、一朶いちだの雲を起すだろうと思われる。ことに驚くべきは眼の色である。
草枕 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
最後に護身刀まもりがたなを引抜て真一文字に掻切かききりたる時に、一朶いちだの白気閃めき出で、空に舞ひ上りたる八珠「粲然さんぜんとして光明ひかりをはな」
「天地一白の間に紅梅一朶いちだの美観を現出したるものは即ち我が新築の社屋なり。」と云ふ句があつて、私が思はず微笑したのを、今でも記憶おぼえて居る。
菊池君 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
おやッと思う間に、一朶いちだの黒雲が青空に拡がって、文字通りの驟雨沛然しゅううはいぜん、水けむりを立てて瀧のように降って来る。
綺堂むかし語り (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
あやしと見返れば、更に怪し! 芳芬ほうふん鼻をちて、一朶いちだ白百合しろゆりおほい人面じんめんごときが、満開のはなびらを垂れて肩にかかれり。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
一朶いちだ薔薇ばらの花を愛する唯の紅毛の女人である。見給へ。その女人の下にはかう云ふ金色の横文字さへある。ウイルヘルム煙草商会、アムステルダム。阿蘭陀オランダ……
商賈聖母 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
瑠璃るり色なる不二の翅脈しみやくなだらかに、じよの如き積雪をはだへの衣にけて、悠々いう/\と天空にぶるを仰ぐに、絶高にして一朶いちだ芙蓉ふよう、人間の光学的分析を許さゞる天色を
霧の不二、月の不二 (新字旧仮名) / 小島烏水(著)
一朶いちだの雲は全く響を収めていても、雷の名残だけに何となくただならぬものがあるように思う。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
この深夜に役場へゆくのはなんのためだろう、巌の頭に一朶いちだ疑雲ぎうんがただようた。
ああ玉杯に花うけて (新字新仮名) / 佐藤紅緑(著)
ときに、真先まつさきに、一朶いちださくら靉靆あいたいとして、かすみなか朦朧もうろうたるひかりはなつて、山懐やまふところなびくのが、翌方あけがた明星みやうじやうるやう、巌陰いはかげさつうつつた。
神鑿 (新字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
一朶いちだの紫雲かとまごう琵琶びわみずうみを見出していたろうに——はやさは觔斗雲に劣らないまでも、そんな他見よそみなどは、城太郎にはちっとも出来ない。
宮本武蔵:04 火の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
平次は何やら掴んでグイと引くと、一朶いちだの黒いものが手に残って、曲者はパッと飛びました。恐ろしい軽捷けいしょうな身のこなし。
その上にむらさきのうずまくは一朶いちだの暗き髪をつかねながらも額際ひたいぎわに浮かせたのである。金台に深紅しんく七宝しっぽうちりばめたヌーボー式のかんざしが紫の影から顔だけ出している。
野分 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
黄袗くわうしんは古びてあかく、四合目辺にたなびく一朶いちだの雲は、垂氷たるひの如く倒懸たうけんして満山をやす、別に風よりはやき雲あり、大虚をわたりて、不二より高きこと百尺ばかりなるところより、これかざ
霧の不二、月の不二 (新字旧仮名) / 小島烏水(著)
所謂いはゆる一朶いちだ梨花海棠りかかいどうを圧してからに、娘の満枝は自由にされてしまつた訳だ。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
その「多情多恨」の如き、「伽羅枕からまくら」の如き、「二人女房」の如き、今日なほ之を翻読するも宛然えんぜんたる一朶いちだ鼈甲牡丹べつかうぼたん、光彩更に磨滅すべからざるが如し。人亡んで業あらはるとは誠にこの人のいひなるかな。
……鋭い小鳥の声が、つんざくようにけ去ってゆく。風のせいか滝の轟きが急に耳へついて、一朶いちだの雲のうちに、陽の光もうすれて来たかのように思える。
宮本武蔵:05 風の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
仰いで、浅間せんげんの森の流るるを見、して、ほりの水の走るを見た。たちまち一朶いちだくれないの雲あり、夢のごとくまなこを遮る。
婦系図 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
何やら怪しい者、——一朶いちだの黒雲のようなものが、平次の寝室に忍び込みました。鼾も何にも聞えませんが、床の側に這い寄ると、手探りで蒲団を剥いて、闇にもキラリとひらめやいば
奇雲の夕日を浴ぶるもの、火峰の如く兀々然こつこつぜんとして天をき、乱焼の焔は、茅萱ちがやの葉々をすべりて、一泓水こうすいの底に聖火を蔵す、富士山その残照の間に、一朶いちだ玉蘭はもくれん、紫を吸ひて遠く漂ふごとくなるや
山を讃する文 (新字旧仮名) / 小島烏水(著)
一朶いちだの白雲が漂うかのような法然の眉、のどかな陽溜ひだまりを抱いている山陰やまかげのように、ひろくて風のないそのふところ。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
那須嶽連山のみねに、たちまち一朶いちだの黒雲のいたのも気にしないで、折敷おりしきにカンと打った。
神鷺之巻 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
そして、次の風雲をはらみ、明日の世代を分つともない一朶いちだの夏雲が、清洲きよすの上に、じっと、動きもせずあった。
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
あわれ、その胸にかけたる繃帯は、ほぐれて靉靆たなびいて、一朶いちだの細き霞の布、暁方あけがたの雨上りに、きずはいえていたお夏と放れて、眠れるごとき姿を残して、揺曳ようえいして、空に消えた。
式部小路 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
ちょうど如意にょいたけと東山のあいだあたりに当るだろう。一朶いちだの雲のふちがキラと真っ赤にえた。
新書太閤記:07 第七分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
一朶いちだ珊瑚島さんごとうのごとく水平線上に浮いた夕日の雲が反射したのである。
誰やらの句もしのばれて、足の裏すら熱かった。——一刀斎はふと杖を止め、一朶いちだの白雲を仰いでいたが、このときもう彼の考えはまっていたものの如く、善鬼と典膳を顧みて
剣の四君子:05 小野忠明 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
屋の棟を、うしろ下りに、山の中腹と思う位置に、一朶いちだの黒雲の舞下ったようなのが、年数を知らない椎の古木のこずえである。大昔から、その根に椎の樹婆叉ばばしゃというのが居て、事々に異霊妖変ようへんあらわす。
古狢 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
妖しい気勢をそよがせていたのもつかのま、たちまち、龍を乗せた一朶いちだの黒雲のように、この一団の怪影は、まだ宵の人通りもあった時刻だけに、かえって、洛内の人目をまぎれ、すべて
私本太平記:12 湊川帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
一朶いちだの雲を、見ていた。ふと見たのである、われに返って。
宮本武蔵:08 円明の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)