越中守えっちゅうのかみ)” の例文
その日、佐々成政さっさなりまさは、重傷を負い、野村越中守えっちゅうのかみは戦死し——辛くも前田犬千代が力戦して、わずかに味方の退口のきぐちを取ったので、全滅をまぬかれたくらいだった。
新書太閤記:04 第四分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
細川越中守えっちゅうのかみ屋敷の少し先、雑司ヶ谷鬼子母神にいたる一廓いっかくに百姓風ながら高々と生垣をめぐらし、藁屋根わらやねひさしらした構え、これに玄関を取付け、長押なげしを打ったら
じゅ位下いのげ左近衛少将さこんえのしょうしょう越中守えっちゅうのかみ細川忠利ほそかわただとしは、寛永十八年辛巳しんしの春、よそよりは早く咲く領地肥後国ひごのくにの花を見すてて、五十四万石の大名の晴れ晴れしい行列に前後を囲ませ
阿部一族 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
その後から、第一番に松平越中守えっちゅうのかみ久世大和守くぜやまとのかみ、松平周防守すおうのかみ、牧野備中守びっちゅうのかみ岩城播磨守いわきはりまのかみ、それにお側御用御取次水野出羽守でわのかみの以上六名が、いずれも一人一役のお歴々である。
魔像:新版大岡政談 (新字新仮名) / 林不忘(著)
医を今大路いまおおじ侍従道三どうさん玄淵げんえんに学び、元禄十七年三月十二日に江戸で津軽越中守えっちゅうのかみ信政のぶまさに召し抱えられて、擬作金ぎさくきん三枚十人扶持を受けた。元禄十七年は宝永ほうえいと改元せられた年である。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)