相模守さがみのかみ)” の例文
それは元和元年、すなわち大坂落城の年の夏で、かの大久保相模守さがみのかみの姻戚関係から滅亡の禍いをまねいたのであると伝えられている。
青蛙堂鬼談 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
(第二)内匠頭は上野介の戒告をうけたが、どうしても納得する事ができず、その足で熟知の間柄である老中の月番土屋相模守さがみのかみを訪ねた。
本所松坂町 (新字新仮名) / 尾崎士郎(著)
母の郷里は、千葉県の佐倉で、古くは堀田相模守さがみのかみの領である。生家は代々その堀田藩士であった。ぼくらの童心の印象に深い“おじいさん”つまり母の父は、山上弁三郎といった。
最後に七年四月二十六日に允成のれたしつは、下総国しもうさのくに佐倉さくらの城主堀田ほった相模守さがみのかみ正順まさよりの臣、岩田忠次いわたちゅうじの妹ぬいで、これが抽斎の母である。結婚した時允成が三十二歳、縫が二十一歳である。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
大久保相模守さがみのかみは板倉伊賀守いがのかみ床几しょうぎを並べて、切支丹きりしたんの宗徒の手入ていれを検視していた。
切支丹転び (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
「見えるだろう、吉里の右にいるのは、土屋だ、老中の土屋相模守さがみのかみだよ」
山彦乙女 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
「土屋相模守さがみのかみ様ア——」
午刻ひるどきの食事がすんで、廊下を、続々と、空の膳部が下がってくる頃、品川まで出迎えに出た老中土屋相模守さがみのかみをはじめ、その以下の諸侯が、駕、馬を、伝奏屋敷の門にほこりが立つほど、改めて
新編忠臣蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)