“康煕(こうき)” の例文
清(しん)朝もその国初の康煕(こうき)、雍正(ようせい)、乾隆(けんりゅう)の百三十余年間はめざましい文運隆昌の時代で、嘉慶(かけい)に至って漸く衰えはじめました。
康煕(こうき)年間の動乱に当って、琉球の使節は清帝及び靖南王に奉る二通の上表文を持参していったとの事であります。
琉球史の趨勢 (新字新仮名) / 伊波普猷(著)
康煕(こうき)末年の『中山伝信録(ちゅうざんでんしんろく)』の類また三十六島の方言差別をまま記入してはあるが、断片的に過ぎぬ。
漢(かん)の高祖(こうそ)が丁公(ていこう)を戮(りく)し、清(しん)の康煕(こうき)帝が明(みん)末の遺臣(いしん)を擯斥(ひんせき)し、日本にては織田信長(おだのぶなが)が武田勝頼(たけだかつより)の奸臣(かんしん)、すなわちその主人を織田に売らんとしたる小山田義国(おやまだよしくに)の輩(はい)を誅(ちゅう)し
瘠我慢の説:02 瘠我慢の説 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
当時元日に白馬を貢献したるなり、この風康煕(こうき)帝の世まで行われつ、チムコウスキは
わたしの先祖の光禄公(こうろくこう)は康煕(こうき)年間、崔荘(さいそう)で質庫(しちぐら)を開いていた。沈伯玉(ちんはくぎょく)という男が番頭役の司事を勤めていた。
それから九百余年の後、清(しん)の康煕(こうき)年間のことである。会稽(かいけい)の徐藹(じょあい)という諸生が年二十五で瘕(か)という病いにかかった。腹中に凝り固まった物があって、甚だ痛むのである。
康煕(こうき)年間のある秋に霖雨(ながあめ)が降りつづいて、公の祠の家根(やね)からおびただしい雨漏りがしたので、そこら一面に湿(ぬ)れてしまったが、不思議に公の像はちっとも湿れていない。