則村のりむら)” の例文
そして味方の細川定禅、赤松円心則村のりむらの二将と、鳥羽殿とばでんの門外で落ちあった。つまり東西両軍の連絡を遂げたのだった。
私本太平記:10 風花帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
新田義貞は上野こうずけに、赤松則村のりむら播磨はりまの国に、結城ゆうき宗広は陸奥むつの国に、土居、得能とくのうは四国の地に、名和長年は伯耆ほうきの国に、菊池武時は九州の地に、そうして足利高氏さえ
あさひの鎧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
尊氏、直義その後を追うて、西上するや、建武の功臣たる赤松則村のりむらなど、官軍に叛いて尊氏に応じ、東西から京都に迫つたので、天皇は延元えんげん元年正月一日、難を比叡山に避け給うた。
二千六百年史抄 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
むろとまりの群船に一夜が明けた翌日だった。尊氏が坐乗ざじょうの大船へ、ひる頃、一団の伺候者しこうしゃがあった。——奥地の白旗城から出てきた赤松円心則村のりむらと、一族の者だった。
私本太平記:11 筑紫帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
いずれにしろ、義貞は、三月すえには、播州加古川に本陣をすえ、すすんでは、斑鳩いかるがへ前線司令部をおいた。そしてまず序戦、赤松円心則村のりむらの居城、白旗城を一気に抜くつもりだったのだ。
私本太平記:11 筑紫帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
一説には、これは赤松則村のりむら(円心)のすすめだともいわれている。
私本太平記:10 風花帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
播磨の赤松円心則村のりむらにたいする授賞だった。