世禄せいろく)” の例文
文化十一年うまれで貞固よりは二つの年下である。平井の家は世禄せいろく二百石八人扶持なので、留守居になってから百石の補足を受けた。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
かつ今日は、世禄せいろくの家なくして労働の身あるのみ。労すればもってくらうべし、逸すればもって飢ゆべし。
富の勢力は槍先功名やりさきのこうみょうまでもかせり。功名の記念たる、封建武士の世禄せいろくも、その末世まつせにおいては、一種の様式となり、売買せらるるに到れり、今日における鉄道株券同様に。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
真志屋五郎作は神田新石町しんこくちょうの菓子商であった。水戸家みとけ賄方まかないかたを勤めた家で、ある時代からゆえあって世禄せいろく三百俵を給せられていた。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
封建武士は、余所よその花を傍目はために眺めて暮らすの外、別に妙手段もなし。彼らの世禄せいろくは依然たり、社会の生活は、駸々乎しんしんことして進歩せり。今は詮方せんかたなし、ただ借金の一あるのみ。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
一、古来、封建世禄せいろくの風、我が邦に行われ、上下の情、相通ぜざること久し。
また、封建世禄せいろくの世において、家の次男三男に生れたる者は、別に立身の道を得ず。あるいは他の不幸にして男児なき家あれば、養子の所望を待ちてその家を相続し、はじめて一家の主人たるべし。
徳育如何 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
三百石十人扶持の世禄せいろくの外に、寛政十二年から勤料つとめりょう五人扶持を給せられ、文化四年に更に五人扶持を加え、八年にまた五人扶持を加えられて、とうとう三百石と二十五人扶持を受けることとなった。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)