鎖国さこく)” の例文
その真実の精神は仏陀ぶっだ感応かんのうましまして、この誰もが入り難い厳重なる鎖国さこく内に到達して、今日まで仏教を修行することが出来たのである。
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
ですから、世界せかい国々くにぐにのようすは、なにもわかりませんし、また、どうなっているかをしろうともしませんでした。これを「鎖国さこく」といいます。
「悪口を言うなよ。此処は鎖国さこく攘夷じょういの精神の盛んなところだから、うっかりすると打ん撲られるぜ」
ぐうたら道中記 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
彼ばかりでなく、総じて徳川鎖国さこく主義以前の——元亀、天正の人間には、おぼろげながら、万里の波濤の彼方かなたにも、人とよぶ異人、国とよぶ国が、無数にあることについて、詳しく知っていた。
新書太閤記:06 第六分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
また貴国が全く鎖国さこくとなって以来既に二十年余りを経たれど、誰も今日まで入ることの出来ぬその中に独り私が入ることの出来たのは
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
願書を出す、身元がいる、五人組証明をとられる、白洲しらすで調べをくう、大変な手数てかず。元は関船手形だけですんだ。こう厳密ではなかった。それにはわけがある。阿波の鎖国さこく、徳川幕府の凝視ぎょうし——。
鳴門秘帖:01 上方の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
鎖国さこく主義 のごときに至っては、たといシナ皇帝がこの国に兵を向けて外国人を入れなければならんというても決して入れることをしないのは我が国の主義であると断言し
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
その後かれがなつかしき羅馬ローマへあてた通信もたえて、世は徳川治世となり、新将軍秀忠、三代家光相ついでの鎖国さこく禁教の令に、薄命な羅馬ローマ貴族は、ようとしてその消息をたったままとなり来りました。
江戸三国志 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
信長は、後の鎖国さこく主義などというものを、知らなかった。
新書太閤記:06 第六分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)