よゝ)” の例文
西村廓清の妻島の里親河内屋半兵衞が、西村氏の眞志屋五郎兵衞と共に、よゝ水戸家の用達であつたことは、はやく海録の記する所である。
寿阿弥の手紙 (旧字旧仮名) / 森鴎外(著)
宗家昌叱のすゑよゝ京都に住み、分家玄仍の裔は世江戸石原に住んでゐた。しかし後には兩家共京住ひになつたらしい。
寿阿弥の手紙 (旧字旧仮名) / 森鴎外(著)
医心方はよゝ秘府ひふに蔵儲せられてゐた。そして全書の世間に伝はつたのが安政元年十一月十三日であつたことは、嘗て渋江抽斎の伝に記した如くである。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
余語よご氏はよゝ古庵の号をいだものである。古庵一に觚庵にも作つたか。当時の武鑑には、「五百石、奥詰御医師、余語良仙、本郷弓町」として載せてある。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
阿部家の医官馬屋原氏はよゝ玄益と称した。初代が玄益寧成ねいせい、二代が玄益順成じゆんせい、三代が玄益成美せいびである。寧成は安永十年に表医師に召し出だされ、寛政元年に歿した。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
更に推測の歩を進めて、江間氏はよゝ利右衞門と稱してゐて、明和六年に歿した利右衞門泰了の嫡子が寛政四年に歿した利右衞門淨岸で、淨岸の弟が長島五郎兵衞誠範であつたとする。
寿阿弥の手紙 (旧字旧仮名) / 森鴎外(著)