“さだよし”のいろいろな漢字の書き方と例文
語句割合
貞能55.6%
定良11.1%
貞慶11.1%
定敬11.1%
定能11.1%
(注) 作品の中でふりがなが振られた語句のみを対象としているため、一般的な用法や使用頻度とは異なる場合があります。
肥後守貞能さだよしは、淀川の川尻に源氏が来たと聞いて、五百余騎を引連れて出たが、間違いとわかって引き帰してくる途中、宇度野うどので都落ちの一行に出会った。
其他儒に渡辺樵山せうざんがあり、歌人に木村定良さだよしがある。わたくしはかみに樵山の事を記した後、其父の誰なると其生誕の何年なるとを知ることを得た。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
木村文河、名は定良さだよしあざなは駿卿、通称は駿蔵、一に橿園きやうゑんと号した。身分は先手与力さきてよりきであつた。橘千蔭ちかげ、村田春海はるみ等と交り、草野和歌集を撰んだ人である。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
「——信州、深志ふかしの城に入れ置かれました小笠原貞慶さだよしも、伯耆守ほうきのかみの出奔と同時に、妻子眷族けんぞくを連れて、大坂表へ、落ちのびて行った由にござります」
新書太閤記:11 第十一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「なに、貞慶さだよしも」
新書太閤記:11 第十一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
会桑かいそう二藩は特に怒った。突然十二月十二日の夜慶喜は京都から大坂へ下った。松平容保かたもち、松平定敬さだよし、他幕臣が従った。
大捕物仙人壺 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
その頃、伊賀、伊勢の住人で、平家の家人だった者が寄り集り、肥後守定能さだよし伯父おじ平田ひらたの入道定次さだつぐを大将として、近江国に討って出た。