よぎ)” の例文
一九一五年二月、私は独逸軍占領のブルツセル市を脱け出して、和蘭オランダの国境を超へ、英国に渡り、更に海峡をよぎつて仏蘭西に落ち延びた。
馬鈴薯からトマト迄 (新字旧仮名) / 石川三四郎(著)
半時間ほど電車に乗って目的地で降りたときは、さすがに恋人にあう嬉しさが勝って、重たい気分の中に一道の明るさがよぎった。
被尾行者 (新字新仮名) / 小酒井不木(著)
一階目いつかいめゆかは、いまよぎつたに、とびらてまはしたとるばかりひろかつた。みじかくさ処々ところ/″\矢間やざまひと黄色きいろつきで、おぼろおなじやう。
神鑿 (新字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
その中で、時折翼のような影がよぎって行くけれども、たぶん大鴉おおがらすの群が、円華窓の外をかすめて、尖塔の振鐘ピールの上に戻って行くからであろう。
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
彼は倚凭よりかかって眺め入っていた田圃たんぼわきだの、いていた草だの、それから岡をよぎる旅人の群などを胸に浮べながら帰って来た。
家:01 (上) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
辰の痘を病んで死する時、京都に来合せてゐたのが、叔姪しゆくてつの別であつた。山陽は展墓のために竹原に往つて、帰途に廉塾をよぎつたのである。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
よぎりさらに東北へ数町行くと駒込林町へ出るのであるがもちろんこれは今日の道順みちで文政末年には医学校もなければ郁文館中学もあろう筈がない。
大鵬のゆくえ (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
イクバクモ亡クシテ彦之ハ房州ニ帰リ彼此かれこれ訊問杳然ようぜんタルコト数年ナリ。庚戌ノ秋余事アリ房州ニ赴キよぎリテ彦之ヲ見ル。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
ヰア、リペツタを下りゆきて、ボルゲエゼの館に近づきぬ。我もドメニカも、此館の前をば幾度となくよぎりしかど、けふ迄は心とめて見しことなし。
冬空をよぎった一つの鳥かげのように、自分の前をちらりと通りすぎただけでその儘消え去るかと見えた一人の旅びと
菜穂子 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
『同人中の先輩奧平北湖先生二三日うち御地をよぎらるゝ筈、或は貴寓を訪れらるゝも知れず。山紫水明の地に於ける一夕の雅會を想望して健羨に堪へず』
俳諧師 (旧字旧仮名) / 高浜虚子(著)
前年護謨林ゴムりんに従事して居た長田秋濤をさだしうたう氏夫妻が住んで居たと云ふ林間の瀟洒せうしやたる一をくよぎり、高地にある三井物産支店長の社宅の楼上で日本食の饗応を受けた。
巴里より (新字旧仮名) / 与謝野寛与謝野晶子(著)
華ばなしい光の列が彼の眼の前をよぎって行った。光の波は土をって彼の足もとまで押し寄せた。
過古 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
また代王の内蔵の物失せて戸締りはもとのごとし、士嘉これきっと猴牽さるひきが猴を使うたのだと言いて、ぬさを庭につらね、群猴をしてよぎらしめて伺うに、一つの猴がつかみ去った
彼はそれらを考えたくなかった。しかしそれらはいつまでもそこにあった。彼はそれらを感じた。それらのことの追憶が、刺すような苦痛をもって時々彼の心をよぎった。
そしていまや彼の運命はこの室をよぎりつつある。彼はじっとその壁をながめ、次に自分を顧みた。それがこの室であり、それが自分自身であることを、彼は自ら驚いた。
こゝろ帰家かへりたきにありて風雅ふうがをうしなひ、古跡こせきをもむなしくよぎり、たゞ平々なみ/\たる旅人りよじんとなりて、きゝおよびたる文雅ぶんがの人をも剌問たづねざりしは今に遺憾ゐかんなり。嗟乎あゝとしけんせしをいかんせん。
一昨日おとついの事なりし、僕かの荘官が家のほとりよぎりしに、納屋なやおぼしかたに当りて、鶏の鳴く声す。
こがね丸 (新字旧仮名) / 巌谷小波(著)
目科も此上問うの益なきを見て取りしかたっ推問おしとわんともせず、是にて藻西太郎を残し余と共に牢を出で、はしごを下りて再び鉄の門を抜け、廊下を潜り庭をよぎり、余も彼れも
血の文字 (新字新仮名) / 黒岩涙香(著)
青年はしばし四辺あたりを見渡して停止たたずみつおりおり野路のみちよぎる人影いつしか霧深き林の奥に消えゆくなどみつめたる、もしなみなみの人ならば鬱陶うっとうしとのみ思わんも、かれはしからず
わかれ (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
点頭うなづきながら云つて、つと立つて戸口をけて外へ出た、英也も続いて出て行つたらしい、白つぽいなが外套の裾が今目をよぎつたのはその人だらうと鏡子は身をよこたへた儘で思つて居た。
帰つてから (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
私は遠退とほのいてゆく燭光あかりをじつと見まもつてゐた。彼は極めて靜かに廊下をよぎり、出來るだけ音をたてないやうに階段室のドアを開けて後をとざした。それで燈火あかりの最後の光も消えてしまつた。
栄一は街に使に出る度毎に、その銅像の前をよぎつた。その銅像は——亜米利加印度人の少年が太陽に向つて弓をひいて立つて居る。その側に彼の父が彼を見守つて居ると云ふものであつた。
ちょうど酒泉しゅせん張掖ちょうえきの辺を寇掠こうりゃくすべく南に出て行く一軍があり、陵は自ら請うてその軍に従った。しかし、西南へと取った進路がたまたま浚稽山しゅんけいざんふもとよぎったとき、さすがに陵の心は曇った。
李陵 (新字新仮名) / 中島敦(著)
あの男が一ぱい機嫌きげんで悪口するはアルコールの蒸発じょうはつのどよぎって来るから、人の言葉として顕われるが、一種のガスの作用にほかならぬ。我々の耳に達したころはちょうど消えてなくなる。
自警録 (新字新仮名) / 新渡戸稲造(著)
帰途別所の盆地をよぎったが、ここには県営の大きなプールが出来るはず。
雲仙岳 (新字新仮名) / 菊池幽芳(著)
そこで燒栗を買つた義男はそれを食べながら崖の下り口に立つて海のやうに闇い三河島の方を眺めてゐた。この祭禮の境内へ入つてくる人々が絶えず下の方から二人の立つてる前をよぎつて行つた。
木乃伊の口紅 (旧字旧仮名) / 田村俊子(著)
我れは薄暮の客たまたまここによぎるもの
駱駝の瘤にまたがつて (旧字旧仮名) / 三好達治(著)
彼の頭には時々理智の閃きがよぎった。
反抗 (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
願くばよぎる勿れ
われを今よぎ
佐藤春夫詩集 (旧字旧仮名) / 佐藤春夫(著)
只棠軒の妻柏が一たび病んで後えたこと(一月二十六日)、江木鰐水が棠軒を訪ひ(一月五日)、又棠軒が江木氏をよぎつたこと(一月十日)
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
こうして、法水の調査は円華窓附近にも及んだけれど、わずかに知ったのは、その外側を、尖塔に上る鉄梯子がよぎっているという一事のみであった。
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
諸君、他日もし北陸に旅行して、ついでありて金沢をよぎりたまわん時、好事こうずの方々心あらば、通りがかりの市人に就きて、化銀杏ばけいちょうの旅店? と問われよ。
化銀杏 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
しかしわたくしは大正壬戌じんじゅつの年の夏森先生をうしなってから、毎年の忌辰きしんにその墓を拝すべく弘福寺の墳苑におもむくので、一年に一回向島のつつみよぎらぬことはない。
向嶋 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
又、或時の彼は薄日のあたった村の白壁の上をたよりなげによぎった自分の影を何か残り惜しげに見た。
菜穂子 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
われ等は中央に小き石卓を据ゑたる圓堂をよぎりぬ。こゝは始て基督教に歸依きえしたる人々の、異教の民に逐はるゝごとに、ひそかに集りて神に仕へまつりしところなりとぞ。
こゝろ帰家かへりたきにありて風雅ふうがをうしなひ、古跡こせきをもむなしくよぎり、たゞ平々なみ/\たる旅人りよじんとなりて、きゝおよびたる文雅ぶんがの人をも剌問たづねざりしは今に遺憾ゐかんなり。嗟乎あゝとしけんせしをいかんせん。
その子諸父に謀りていわく、われ聞く、里中葛秀才、天性よく記すと、かれ、昨わが家をよぎり、かつてこの籍を閲す、あるいはよく記憶せん、なんぞ情をもって叩かざるや、と。
奥の知れないような曇り空のなかを、きらりきらり光りながらよぎってゆくものがあった。
城のある町にて (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
虚々うかうかとおのれも里のかた呻吟さまよひ出でて、或る人家のかたわらよぎりしに。ふと聞けば、垣のうちにてあやしうめき声す。耳傾けて立聞けば、何処どこやらん黄金丸の声音こわねに似たるに。今は少しも逡巡ためらはず。
こがね丸 (新字旧仮名) / 巌谷小波(著)
それから雪を踏んで出町橋を渡つて鴨川傳ひを北へ取つて、山端を過ぎて八瀬をよぎり大原の里へ行く。京都の市中で見る大原女より此八瀬大原で見る大原女の方がなつかしいやうに思はれる。
俳諧師 (旧字旧仮名) / 高浜虚子(著)
うるわしい白雲が、眩惑げんわくせる人の眼にただ輝ける跡をのみ残して空をよぎってゆくように、流れ去る時間、春のものうさで人を包む、なま温かい息吹いぶき、肉体の金色の熱、日に照らされた愛の葡萄棚ぶどうだな
彼のひとみは小川に沿つてさまよひ、やがて小川を染める雲のない大空をよぎつて歸つて來た。彼は帽子を脱いで、微風に髮をなぶらせひたひに接吻させた。彼はそのあたりの妖精達と遊んでゐるやうに見えた。
彼女の眼前をよぎった前日の恐ろしいものを打ち消してやろうとした。
蘭軒は文化丙寅に長崎に往く途次、神辺かんなべよぎつた。茶山がこれを江戸にある蘭軒の父信階のぶしなに報じた書は即是である。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
熊笹のびて、すすきの穂、影さすばかりいたれば、ここに人ありと知らざるさまにて、道を折れ、坂にかかり、松の葉のこぼるるあたり、目の下近くよぎりゆく。
清心庵 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
悪くさせるかそれすら分らないような何物かが——一滴の雨をも落さずに村の上をよぎってゆく暗い雲のように、自分たちの上を通り過ぎていってしまうようにとねがっていた。
楡の家 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
知らぬ子供あまたおもしろげに我めぐりを馳せ𢌞りて、燭涙の地に墜ちて凝りたるを拾ひ、反古ほごひねりて作りたる筒に入れたり。我等が行くは、きのふ祭の行列のよぎりし街なり。
旧藩主も一代に一度は必ずその下をよぎりて神徳を老樹の高きによそえ仰がれたるなり。
神社合祀に関する意見 (新字新仮名) / 南方熊楠(著)