文晁ぶんてう)” の例文
また文晁ぶんてうの如きもこの地に遊跡あり、福島の堀切氏、大島氏等はその大作を所蔵する事多しと聞き候、これも一覧を乞はばやと存じ候。
大菩薩峠:32 弁信の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
後に谷文晁ぶんてうの弟子にもなつて、師匠のために下絵を代筆したりなどしたが、ある日文晁が訪ねてゆくと、北馬は左手でもつてせつせと絵をかいてゐた。文晁が不思議に思つて
武清は可庵の名である。又笑翁とも號した。文晁ぶんてう門で八丁堀に住んでゐた。安永五年生で安政三年に八十一歳で歿した人だから、此話を壽阿彌に書かれた時が五十三歳であつた。
寿阿弥の手紙 (旧字旧仮名) / 森鴎外(著)
広重ひろしげの富士は八十五度、文晁ぶんてうの富士も八十四度くらゐ、けれども、陸軍の実測図によつて東西及南北に断面図を作つてみると、東西縦断は頂角、百二十四度となり、南北は百十七度である。
富嶽百景 (新字旧仮名) / 太宰治(著)
床の間にはんな素人しろうとが見てもにせと解り切つた文晁ぶんてう山水さんすゐかゝつて居て、長押なげしにはいづれ飯山あたりの零落おちぶれ士族から買つたと思はれる槍が二本、さも不遇を嘆じたやうに黒くくすぶつて懸つて居る。
重右衛門の最後 (新字旧仮名) / 田山花袋(著)
依田竹谷よだちくこく、名はきんあざなは子長、盈科齋えいくわさい、三谷庵こくあん、又凌寒齋りようかんさいと號した。文晁ぶんてうの門人である。此上被うはおほひに畫いた天保五年は竹谷が四十五歳の時で、後九年にして此人は壽阿彌にさきだつて歿した。
寿阿弥の手紙 (旧字旧仮名) / 森鴎外(著)