安積艮斎あさかごんさい)” の例文
儒者または国学者には安積艮斎あさかごんさい小島成斎こじませいさい岡本况斎おかもときょうさい海保漁村かいほぎょそん、医家には多紀たき本末ほんばつ両家、就中なかんずく茝庭さいてい、伊沢蘭軒の長子榛軒しんけんがいる。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
坂井虎山さかいこざんの厩戸論)また、他の漢学者は、「ああこれ、一暗弱の太子のみ。」と論じている。(安積艮斎あさかごんさいの厩戸論)
八月十一日、秋も早なかばちかづいた頃林祭酒は重ねてその別墅に竹渓を招いた。この日同じく招かれたものは大窪詩仏おおくぼしぶつ、菊池五山、市河米庵いちかわべいあん安積艮斎あさかごんさいの四人のみであった。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
初め抽斎は西洋ぎらいで、攘夷に耳をかたぶけかねぬ人であったが、前にいったとおりに、安積艮斎あさかごんさいの書を読んで悟る所があった。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
冬至の夜枕山は安積艮斎あさかごんさい雄禅ゆうぜん禅師の二人と共に目白台に住した書家藤田惇斎ふじたとんさいの家に招がれた。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
厩戸皇子は、天皇に忠言してそれを思いとどまらせたが、そのことが、皇子の側から蘇我氏に告げられ、逆に、天皇が殺されたのである。徳川時代の学者安積艮斎あさかごんさいも、そう論じている。
後に抽斎とまじわる人々の中、抽斎にさきだって生れた学者は、安積艮斎あさかごんさい、小島成斎、岡本况斎きょうさい、海保漁村である。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
佐藤一斎の門人安積艮斎あさかごんさい及び大沼竹渓その他合せて九人であった。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
聖徳太子にかんして、安積艮斎あさかごんさいは論じている。
池田錦橋と親しく交り、その歿するに及んで墓表を撰み、廃嫡の子京水を憐んで交をへなかつたのは即此人である。わたくしは後に安積艮斎あさかごんさいの樗園の平生を記したのを見た。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)