“あきよし”のいろいろな漢字の書き方と例文
語句割合
顕能50.0%
顕義50.0%
(注) 作品の中でふりがなが振られた語句のみを対象としているため、一般的な用法や使用頻度とは異なる場合があります。
伊勢の北畠顕能あきよしの軍は大和の五条に着き、楠木正儀まさのりは東条に拠って、八幡やわた、天王寺あたりの動きもただではない。
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
雅家まさいえ北畠きたばたけと号す——北畠親房きたばたけちかふさその子顕家あきいえ顕信あきのぶ顕能あきよしの三子と共に南朝なんちょう無二の忠臣ちゅうしん楠公なんこう父子と比肩ひけんすべきもの、神皇正統記じんのうしょうとうきあらわして皇国こうこくの正統をあきらかにす
ああ玉杯に花うけて (新字新仮名) / 佐藤紅緑(著)
後村上天皇は、北畠顕能あきよし、名和長重(長年の子)らにまもられて、からくも河内野へ逃げ走られた。
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ところが鳳輦ほうれんが八幡に着くと同時に、およそ七、八千騎の軍勢がどこからともなく来て、夜のうちに洛外をうずめ、それらが一せいに旗手はたでを解いて朝空にひるがえしたのを見れば、北畠顕能あきよし
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
私の下宿は飯田町の山田顕義あきよしという政府の高官の屋敷近くで、当時下宿代が月四円であった。
よほど御思召おんおぼしめしに叶つたやうであり、同年末には、立憲政治に就いて、山県有朋、黒田清隆、山田顕義あきよし、伊藤博文、大隈重信などの各参議に対して、意見の提出をお求めになつて居られる。
二千六百年史抄 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)