くう)” の例文
広い室内のすみの方へ、背後うしろに三角のくうを残して、ドカリと、傍床わきどこの前に安坐あんざを組んだのは、ことの、京極きょうごく流を創造した鈴木鼓村こそんだった。
朱絃舎浜子 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
二本の指先で、頬にある奇妙な生毛の一つをつまんで、四半時ぐらいそれをひねり廻しながら、彼はくうを見つめて、一行も進まない。
トリスタン (新字新仮名) / パウル・トーマス・マン(著)
暴風雨あらし模様の高浪を追越し追越し、白泡を噛み、飛沫しぶきを蹴上げて天馬くうはしるが如く、五島列島の北の端、城ヶ島を目がけて一直線。
名娼満月 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
一度は必ず「くう」(執着せぬ、こだわらぬ、あるいは自由さということです。常に因、縁、果によって変化し行く自由性を言います)
仏教人生読本 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
秀吉はくうを睨んで突っ立っていると、そこに一本咲き乱れている遅桜の梢かと思わるるあたりで、彼を嘲るような笑い声がきこえた。
小坂部姫 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
くうを斬ると編笠の侍は、右手めての鉄扇に力をくれて、旅川周馬の顔をハタキつけた。こうなっては孫兵衛も、大事をとっていられない。
鳴門秘帖:02 江戸の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
抽斎は師迷庵の校刻した六朝本りくちょうぼんの如きは、何時なんどきでも毎葉まいよう毎行まいこうの文字の配置に至るまで、くうって思い浮べることが出来たのである。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
そうですね、地水火風のうちに溶かして、くうにしてあげるのがいちばん功徳くどくだと思いますが、すでに、もう地の中をくぐり、水の中を
大菩薩峠:33 不破の関の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
口の両すみは、古人がよく墓の上に刻んだ多くの面に見るように、下にたれ下がっていた。彼は非難するような様子でくうをながめた。
いかに、わが世の、あだなるや、くうなるや、うつろなるや。げに、人間のあとかたの覺束おぼつかなくて、數少なき。いたづらなるは月日なり。
信一郎は、いらいらしくなつて来る心を、ぢつと抑へ付けて、湯河原の湯宿に、自分を待つてゐる若き愛妻の面影を、くうに描いて見た。
真珠夫人 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
それをばピンセットの尖に持ち上げられた腱を凝視しながら理解しようとしてる者もあれば、くうを睨んで理解しようとしてる者もある。
レンブラントの国 (新字新仮名) / 野上豊一郎(著)
「一切の苦厄をだしたまう、舎利子、しきくうに異らず、空は色に異らず、色すなわち是れ空、空即ち是れ色、受想行識じゅそうぎょうしきもまた是の如し」
小説 円朝 (新字新仮名) / 正岡容(著)
第八 冬日地中ヨリ発スル蒸気ヲ遏抑あつよくシ冬天以テ暗晦ヲ致サズ もし冬日ノ地気ヲシテほしいままくうニ満タシムレバ冬日更ニ昏暗ヲ致スベキナリ
(新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)
しかし、彼女が一口も返事をせず、ぢつとくうを見つめた眼にだんだん涙がにじんで来るのを見て、たうとう根気負けがしたらしく
落葉日記 (新字旧仮名) / 岸田国士(著)
ふわりと、そのおんなそでで抱き上げられたと思ったのは、そうでない、横に口に引きくわえられて、畳をくうり上げられたのである。
眉かくしの霊 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
正義を守るこれ成功せしなり、正義よりもとるまた正義より脱する(たとい少しなりとも)これを失敗という、大廈たいかくうそびえて高く
基督信徒のなぐさめ (新字新仮名) / 内村鑑三(著)
『それも駄目だめだ』とこゝろひそかにおもつてるうちあいちやんはうさぎまどしたたのをり、きふ片手かたてばしてたゞあてもなくくうつかみました。
愛ちやんの夢物語 (旧字旧仮名) / ルイス・キャロル(著)
黒い髪と、淡紅色ときいろのリボンと、それから黄色い縮緬ちりめんの帯が、一時に風に吹かれてくうに流れる様を、鮮かに頭の中に刻み込んでいる。
それから (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
パチリッ! 柄近く受けとめた武蔵太郎、つづいてジャアッと刀がかたなを滑って、ほの青い火花が一瞬、うすやみのくうをいろどった。
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
宮崎はまたくうを見つめ、そしてそのまま時間がたった——のだか、或はそれが私の眼底に映った一瞬の光景だったのか、よくは分らない。
別れの辞 (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
それから彼女の眼ざしはときどきひとりでに、何か気に入らないものを見咎みとがめでもするように、長いことくうを見つめたきりでいたりした。
菜穂子 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
積まれ積まれる白紙は、所定の、高さにかさむと、目の廻る速度でまた除去して、くうにし、空へまた奔って来て乗る白紙へ備えねばならぬ。
フレップ・トリップ (新字新仮名) / 北原白秋(著)
病人はそののちこともものを言わない。もう口の周囲まわりに見えていた微笑ほほえみの影も消えた。今は真面目まじめな、陰気な顔をしてくうを見詰めている。
みれん (新字新仮名) / アルツール・シュニッツレル(著)
僕の生活は相変らずくうな生活で始終している。そして当然僕の生涯のげんの上には倦怠けんたいと懶惰が灰色の手を置いているのである。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
夜目にもさかんな月見草が微風そよかぜに揺れてゐる河堤で漸く私は馬車のうしろにぶらさがつた。鞭の昔が痛々しくくうに鳴つてゐた。
武者窓日記 (新字旧仮名) / 牧野信一(著)
元より見事に、——と思ったのに、八人おそって、八人仕損じたことのない直人の剣が、どうしたことかゆらりとくうに泳いだ。
流行暗殺節 (新字新仮名) / 佐々木味津三(著)
又、萬有のすぐれてめでたき事もくうにはあらず又かのうつ蘆莖あしぐきそよぎもくうならず、裏海りかいはまアラルのふもとなる古塚ふるづかの上に坐して
頌歌 (旧字旧仮名) / ポール・クローデル(著)
どうかするとくうを見て独語ひとりごとを言つてゐる。これで三度目に樺太を脱ける筈のこの年寄の流浪人は、見る見る弱つて行くらしい。
くうをみつめた眼玉をぐるりと一廻転させると、すぐにまた、瞼を閉じた。そしてそのまま、かすかな寝息を立てて、眠り続けた。
斗南先生 (新字新仮名) / 中島敦(著)
私の指の間で、くうをつかむ。嘴を開く。細い舌がぴりぴりと動く。すると、ホメロスの言葉を借りれば、その眼の中に死の影が降りて来る。
博物誌 (新字新仮名) / ジュール・ルナール(著)
出しゃばり者の幽霊めが入り込んで来たので、すべての希望もくうに帰した。あいつがここにいる間は、僕は何も言うことは出来ないのである。
そこで三人はにやにや笑って何事か囁き合い乍ら、今度は茶の間の畳の上を廓大鏡を出して、検査したが、やはり、彼等の努力はくうに帰した。
犬神 (新字新仮名) / 小酒井不木(著)
さてまた此大したお金を何ぞいことにつかたいと思ふにつけ、さき/\のかんがへが胸のうちに浮んで来ましたが、いづれも夢か幻のやうくうな考へでした。
黄金機会 (新字旧仮名) / 若松賤子(著)
その常の如く汝をくうにむかはしむ、そも/\汝の見るものは、誓ひを果さゞりしためこゝに逐はれしまことの靈なり 二八—三〇
神曲:03 天堂 (旧字旧仮名) / アリギエリ・ダンテ(著)
それだけにわたしは、くうにいつもみてすぎていたその往来のうえを、しげしげといまみ守ることによって軽い驚きを感じた。
浅草風土記 (新字新仮名) / 久保田万太郎(著)
栄二は立停って、上わ眼づかいにくうのどこかを見まもった。風が彼の着物の裾をはためかせ、乱れた髪の毛が頬をなぶった。
さぶ (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
くうなことからさらに一そう空なことへと空轉からまわりをしながら、まだまだ長いこと、これに類した事柄のうえにさまよっていた。
自動車はくうを走っているように思えた。サイレンの恐ろしいうなり声が、にぎやかな大通を、たちまち無人の道のようにした。
地中魔 (新字新仮名) / 海野十三(著)
二人の神經はある悲しみの際に臨みながら、その悲しみを嘲笑のくうの中にお互に突つ放さうとする樣な昂奮を持つてゐた。
木乃伊の口紅 (旧字旧仮名) / 田村俊子(著)
ツと寄ッた昇がお勢のそばへ……くうで手と手がひらめく、からまる……としずまッた所をみれば、お勢は何時いつか手を握られていた。
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
れ我国たるや、現今戦勝後の隆盛を誇るも、然れども生産力の乏しきと国庫のくうなるとは、世評の最も唱うる処たり。
関牧塲創業記事 (新字新仮名) / 関寛(著)
そらというより、くうをみつめていたと言った方がよろしいかもしれぬ。空には何も見えないのであったが、眼もまた何も見ていないごとくであった。
如何なる星の下に (新字新仮名) / 高見順(著)
一生懸命に靴下をつまんで、ながいことかかって或る程度まで脚をくうに上げる事業に成功するんだが、そのうちにぽつんと切るように手が離れると
王受け取ってこれを焼きその勇者に武士号を与え金また銀に金をかぶせたる環中かんなかくうにして小礫こいしまた種子を入れたるを賜う。
眠さに対しては、彼らはひざ関節が、グラグラして、作業がくうになるのであった。そして、それが、お互いに、いたちごっこをしているのであった。
海に生くる人々 (新字新仮名) / 葉山嘉樹(著)
無我とは結局無内容だ。無内容はくうだ。空な物が膽力どころではない、これから何物をもることは出來ないのだ。
泡鳴五部作:05 憑き物 (旧字旧仮名) / 岩野泡鳴(著)
それで後ろ向きになるやいなや、石炭の土手が足の下でくずれて、両足をのばし、両手はくうをつかんだまま、かれはまっ暗なあなの中に落ちこんだ。
作者はくうりて想ひ得しなるべく、又まことに空に憑りて想ひ得たりとせんかた、藍本らんぽんありとせんよりめでたからん。
夢は偶然ぐうぜんなる現象にあらず、まったくくうのものにあらず、病的のものにあらず、ばかげたるものにあらず、人生の一部としてかえりみるべきもの
自警録 (新字新仮名) / 新渡戸稲造(著)