荼毗だび)” の例文
しかるところ松向寺殿御遺骸ごいがいは八代なる泰勝院にて荼毗だびせられしに、御遺言ごゆいごんにより、去年正月十一日泰勝院専誉御遺骨ごゆいこつを京都へ護送いたし候。
興津弥五右衛門の遺書 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
と庵を焼いて、なきがらを荼毗だびに付し、白骨を拾って箱におさめ、それを頸にかけると、再び商人船に乗って都に帰ってきた。
床の間のわき、押入の中の手箱には、些少さしょうながら金子たくわえおき候えば、荼毗だびの費用に御当て下されたく、これまた頼入り候。
やがて法界寺という寺で、これを荼毗だびに付した。やがて首も、大仏のひじり俊乗坊しゅんじょうぼうに頼んで、貰いうけ、同じように、荼毗に付した。その後、北の方は出家して、夫の後世を弔ったといわれる。
岫雲院で荼毗だびになったのは、忠利の遺言によったのである。いつのことであったか、忠利が方目狩ばんがりに出て、この岫雲院で休んで茶を飲んだことがある。
阿部一族 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
四月二十八日にはそれまで館の居間の床板とこいたを引き放って、土中に置いてあったかんき上げて、江戸からの指図さしずによって、飽田郡あきたごおり春日村かすがむら岫雲院しゅううんいん遺骸いがい荼毗だびにして、高麗門こうらいもんの外の山に葬った。
阿部一族 (新字新仮名) / 森鴎外(著)