法橋ほっきょう)” の例文
信近はまだ法橋ほっきょうにはなっていなかったが、すでに狩野派の長老であり、御殿絵師としても東西を圧する威勢をもっていた。
おれの女房 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
「昨夜じゅう、今か今かと待っていたが、住吉からは、何の連絡も来なかったな。——ついに切目きりめ法橋ほっきょうの舟軍は、いまだに影を見せぬものか」
私本太平記:12 湊川帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
この皇円阿闍梨は、粟田関白四代後の三河権守重兼が嫡男であって、少納言資隆朝臣あそんの長兄にあたり、椙生すぐうの皇覚法橋ほっきょうの弟であって、当時の叡山の雄才と云われた人である。
法然行伝 (新字新仮名) / 中里介山(著)
それにつれて筆屋や経師屋きょうじやの出入りも頻繁であった。経師では良椿法橋ほっきょうというのが、もっぱら用を弁じたが、筆屋の方の名はわからぬ。ただし筆屋というのは、今日のいわゆる筆商ではない。
「仁和寺の法橋ほっきょうや、南都の覚運僧都そうずなどへも、遺物かたみを贈ったというくらいだから嘘ではあるまい」
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「田辺の別当べっとうをめぐる一群の熊野衆には、尊氏方あり、日和ひより見もありですが、われらがお会いした切目ノ法橋ほっきょうどのは、われら楠木党へきつい肩入れの御仁ごじんでございましたな。なあ助家どの」
私本太平記:12 湊川帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
導師の僧正は長者ノ輿こしに乗り、力者十二人がかつぎ、大童子、そば侍四人、仕丁しちょうらがつき添い、法橋ほっきょう以下の僧官やら一隊の侍やら、仲間ちゅうげん随聞ずいもん稚子ちごまで目をうばうばかり華麗な列だった。
この助家は住吉にとどまって、なお執拗しつように、紀州の切目ノ法橋ほっきょうとの連絡をもちつづけ、田辺水軍の来援をうながしていたのだが、それも今は、絶望のほかなしという今夜の結論だったのである。
私本太平記:12 湊川帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)