榛軒しんけん)” の例文
儒者または国学者には安積艮斎あさかごんさい小島成斎こじませいさい岡本况斎おかもときょうさい海保漁村かいほぎょそん、医家には多紀たき本末ほんばつ両家、就中なかんずく茝庭さいてい、伊沢蘭軒の長子榛軒しんけんがいる。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
わたくしは又伊澤の刀自に、其父榛軒しんけんが壽阿彌のをひをしてくしに蒔繪せしめたことを聞いた。此蒔繪師の號はすゐさいであつたさうである。
寿阿弥の手紙 (旧字旧仮名) / 森鴎外(著)
医者に当時十一歳であった多紀茝庭たきさいてい、二歳であった伊沢榛軒しんけんがある。その他画家文晁は四十三歳、劇通寿阿弥は三十七歳、豊芥子は七歳であった。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
「己丑元旦」の詩は榛軒しんけんが浄書してゐる。「三冬無雪梅花早。一夜生春人意寛。卜得酔郷今歳富。尊余臘酒緑漫々。」
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
このうち抽斎の最も親しくなったのは茝庭である。それから師伊沢蘭軒の長男榛軒しんけんもほぼ同じ親しさの友となった。榛軒、通称は長安ちょうあん、後一安いちあんと改めた。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
しかし猶奇書を獲て自ら慰めてゐる。後詩は元人の「人間万事塞翁馬、推枕軒中聴雨眠」を用ゐてゐる。後に冢子ちようし榛軒しんけんは此語より推枕軒すゐちんけんの号を取つた。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
伊沢氏でお曾能そのさんが生れた天保六年は、蘭軒の歿した六年の後である。又お曾能さんの父榛軒しんけんも山陽が江戸を去つてから六年の後、文化元年に生れた。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
かくの如くに考へて見ると、壽阿彌の手紙にある「愚姪」、伊澤榛軒しんけんのために櫛に蒔繪をしたすゐさい、壽阿彌を家にいて生を終らしめた戸主の三人を、山崎、鈴木
寿阿弥の手紙 (旧字旧仮名) / 森鴎外(著)
それは伊澤蘭軒らんけんの嗣子榛軒しんけんむすめで、棠軒の妻であつた曾能子刀自そのことじである。刀自は天保六年に生れて大正五年に八十二歳の高齡を保つてゐて、耳もなほさとく、言舌も猶さわやかである。
寿阿弥の手紙 (旧字旧仮名) / 森鴎外(著)