梅颸ばいし)” の例文
山陽は母梅颸ばいしに「辰のかはり」が出来たと報じた。山陽の子は三男ふくと此醇とが人と成つた。九月には竹原にある叔父春風が歿した。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
頼山陽らいさんようの母梅颸ばいし女史の日記などは、山陽がお腹にやどる前から山陽の死後十数年にまで及んでいる。世界に例のない“母の日記”といえようか。
此年文政十二年に、頼氏では山陽が五十になり、其母梅颸ばいしが七十になつた。「五十児有七十母、此福人間得応難。」
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
梅颸ばいしは、連れて来た若党を、すぐに便船へ帰して、ひとりになって、わが子とわが子の知己の迎えをうけた。
梅颸の杖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
山陽が広島杉木小路の家をはしつたのは九月五日である。豊田郡竹原で山陽の祖父又十郎惟清これきよの弟伝五郎惟宣これのぶが歿したので、梅颸ばいしは山陽をくやみに遣つた。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
菊池寛氏から頼まれて、頼山陽のお母さんのことを書いた「梅颸ばいしの杖」といふのを書いたおぼえがあります。
折々の記 (旧字旧仮名) / 吉川英治(著)
何くれとなく、彼が寝もの語りに訊いているうちに、梅颸ばいしはかすかな寝息をかいて、返事をしなくなった。
梅颸の杖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
この前——三年程まえに初めて母の梅颸ばいしを京都に迎えて、自分の生活の安定を見せ、かたがた洛中洛外を見物させて歩いた折に、山陽の疾駆しっく的な名声に圧倒されて
梅颸の杖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)