曲淵まがりぶち)” の例文
あれで、高梨小藤次が、もう一出世したら、大岡越前や曲淵まがりぶち甲斐らに伍する名奉行になるだろう、とは書記や同心仲間での嘱望だった。
雲霧閻魔帳 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
それは、いかにも町奉行曲淵まがりぶち甲斐守の家士、得能万兵衛から、明四日千住骨ヶ原にて、しゅ医師何某が腑分をすることを、内報してきた書状だった。
蘭学事始 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
寛文十一年に至つて、岩原郷いははらがう立山に地を賜はり、延宝元年に新庁が造られた。これより立山を東役所、森崎を西役所と云ふ。曲淵まがりぶちは此立山庁邸に入つたのである。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
八月三十一日の夕方、朔日ついたちから学校の始まるちいさい子供達を連れて、主人夫婦は東京に帰る事になり、由井ヶ浜の曲淵まがりぶちの別荘には、九人の人数が残る事になった。
九月一日 (新字新仮名) / 水上滝太郎(著)
パラパラ墓と称する墓場を、雨夜に隠火の出づると言う森と、人魂の落ちこみしと伝うる林を右左にうけて通りこし、かの唐碓のたにの下流なる曲淵まがりぶちの堤に出でたり
空家 (新字新仮名) / 宮崎湖処子(著)
「へえ、そんなに生きるもんですか」「生きるとも百二十までは受け合う。御維新前ごいっしんまえ牛込に曲淵まがりぶちと云う旗本はたもとがあって、そこにいた下男は百三十だったよ」「そいつは、よく生きたもんですね」
吾輩は猫である (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
中川勘三郎忠英たゞひで、叙爵して飛騨守と云ふ。寛政九年二月十二日に長崎奉行より転じて勘定奉行となり、国用方こくようかたを命ぜられた。曲淵まがりぶち甲斐守景漸けいぜんの後をいだのである。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
城外の木戸口を守る者の抜かりから、すでに斎藤下野の一行が、そこを突破したと知った初鹿野伝右衛門の手勢——曲淵まがりぶち庄左衛門の手勢などは——間もなくこの山地へ殺到して、山へ迫って来た。
上杉謙信 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
当日の案内接伴役は、初鹿野はじかの伝右衛門と曲淵まがりぶち庄左衛門であった。
上杉謙信 (新字新仮名) / 吉川英治(著)