基通もとみち)” の例文
摂政基実もとざねの子息、基通もとみち公を家柄といい、才能といい、申し分のない方と思い、この清盛があえてご推薦申し上げたのにお取り上げにならず
普賢寺関白近衛基通もとみちが『俊成卿九十賀記』を書いた。翌元久元年十一月三十日に九十一歳でこうじた。ちょうど『新古今集』の竟宴きょうえんが行われる前の年であった。
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
主上は、御簾ぎょれんのうちへ、関白基通もとみちを召されて、何か仰せられている御様子であった。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
花山院かざんのいん左大臣の奥方、建礼門院けんれいもんいんといわれた安徳あんとく天皇の生母、六条摂政ろくじょうのせっしょう藤原基実ふじわらもとざねの奥方で白河殿と呼ばれた人、普賢寺ふげんじ藤原基通もとみち夫人、冷泉大納言れいぜいのだいなごん夫人、七条修理大夫しちじょうしゅりだいふ夫人、今一人は
「使僧範宴とは、何者の子か」関白基通もとみちが、鷹司たかつかさ右大臣を見ていった。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
摂政基通もとみちも、主上の行幸にお供して加わっていたが、七条大宮のほとりで、一人の童子が車の前を横切った。何気なく見ると、童子の左たもとに、「春の日」という文字の書かれているのが眼に入った。
「ちと、待とう」と基通もとみちがいった。伝奏から
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)