信成のぶなり)” の例文
大久保忠世ただよ、内藤信成のぶなりなどの武者ぶりもよかったが、とりわけ本多平八郎の退きは見事——徳川家にもさむらいはいるぞと、歌ったのであろう。
新書太閤記:04 第四分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
大久保兄弟に属している内藤四郎右衛門信成のぶなり、金の軍配団扇うちわに七曜の指物さしたのが、「我主君は他人の下知を受けるものではない。内藤承って返答したりと申されよ」
長篠合戦 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
水津本に成豊の子が信成のぶなり、信成の子が官蔵となつてゐて、京水本はこれを襲用してゐる。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
馬琴の父は興蔵こうぞうといって松平信成のぶなりの用人であったが、馬琴の幼時死亡した。家は長兄の興旨こうしが継いだが故あって主家を浪人した。しかし馬琴だけは止まって若殿のお相手をしたものである。
戯作者 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
信長の一族中だけでも、従兄いとこ信成のぶなり、伊賀守仙千代せんちよ、又八郎信時など、いずれも戦死し、織田大隅守おおすみのかみ同苗どうみょう半左衛門なども深傷ふかでを負ってしりぞいたが、後まもなく死んだ。
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)