ふち)” の例文
不幸で沈んだと名乗るふちはないけれども、孝心なと聞けばなつかしい流れの花の、旅のころもおもかげに立ったのが、しがらみかかる部屋の入口。
縁結び (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
そこに聴くことのできた話の内容は、一向に二人の関係について予備知識をもたなかった僕を、驚愕きょうがくふちにつきおとすに十分だった。
振動魔 (新字新仮名) / 海野十三(著)
ところがその男は別に三郎をつかまえるふうでもなく、みんなの前を通りこして、それからふちのすぐ上流の浅瀬を渡ろうとしました。
風の又三郎 (新字新仮名) / 宮沢賢治(著)
男は黒き夜を見上げながら、いられたる結婚のふちより、是非に女を救い出さんと思い定めた。かく思い定めて男は眼をずる。——
草枕 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
一つは、テナルディエの子でありエポニーヌの弟であるあのあわれな少年を、まさにきたらんとする切迫せる破滅のふちから救うこと。
あたしは先年、神路山かみじやまが屏風のようにかこんだ五十鈴河のみたらしのふちで、人をおそれぬ香魚が鯉より大きくふとっているのを見た。
薄暗い神殿しんでんの奥にひざまずいた時の冷やかな石の感触かんしょくや、そうした生々しい感覚の記憶の群が忘却ぼうきゃくふちから一時に蘇って、殺到さっとうして来た。
木乃伊 (新字新仮名) / 中島敦(著)
騙詐かたり世渡よわた上手じやうず正直しやうぢき無気力漢いくぢなし無法むはう活溌くわつぱつ謹直きんちよく愚図ぐづ泥亀すつぽんてんとんびふちをどる、さりとは不思議ふしぎづくめのなかぞかし。
為文学者経 (新字旧仮名) / 内田魯庵三文字屋金平(著)
女というものは誰もみなのぞきこんでも底の見えない、深いふちのようなものを一つずつ胸のうちに持っているように思えてならない。
鈴木主水 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
御裁許ごさいきょ役所の少し手前に、水の深いふちがあった。甲斐はそこへいって、釣りの支度をし、乾いた流木に腰をおろして、糸を垂れた。
子供のおさらいは、その木の下で遊び、またはみんなと連れだって、その岩の前やふちの上、池の堤をただ通って行くことでありました。
日本の伝説 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
ある時は天をこがほのおの中に無数の悪魔がむらがりて我家を焼いて居る処を夢見て居る。ある時は万感一時に胸にふさがって涙はふちを為して居る。
(新字新仮名) / 正岡子規(著)
むかし、ばらばらに取り壊し、渾沌こんとんふちに沈めた自意識を、単純に素朴に強く育て直すことが、僕たちの一ばん新しい理想になりました。
花燭 (新字新仮名) / 太宰治(著)
また小なれば、頭を埋め、爪をひそめ、深淵しんえんにさざ波さえ立てぬ。その昇るや、大宇宙を飛揚ひようし、そのひそむや、百年ふちのそこにもいる。
三国志:05 臣道の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
しかし興味あるのはその例外の時である——深いふちが、無数の人々の共通な魂が、一閃の光によって寸秒の間てらし出されるときである。
湖水岸へ出る二町ばかり手前に、葭のきれめから水の流がのぞかれるところがあつて、そこは、早瀬が岩にせかれて、ふちになつてゐました。
千本木川 (新字旧仮名) / 土田耕平(著)
そして少しかみてが、滝ともともつかない急な流れでゆきどまりとなり、その下に、大人の胸ほどの深さのひろいふちをこさえていました。
山の別荘の少年 (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
それから二人は今のうしふちあたりから半蔵のほりあたりを南に向ッて歩いて行ったが、そのころはまだ、この辺は一面の高台で
武蔵野 (新字新仮名) / 山田美妙(著)
むすめはそのふちって、みずうえますと、そこに、あかいすいれんのはなが、二つ三つ、ちょうどほしのように、うつくしくいていたのであります。
娘と大きな鐘 (新字新仮名) / 小川未明(著)
それ故私はたゞ代官町だいくわんちやう蓮池御門はすいけごもん三宅坂下みやけざかした桜田御門さくらだごもん九段坂下くだんざかしたうしふちとう古来人の称美する場所の名を挙げるにとゞめて置く。
水 附渡船 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
人をつけさせるとよかったが、すぐ眼と鼻の先だからと思って一人で帰してやると、家へは帰らずに、今朝死骸になってうしふちに浮いていた
湖水のここは、ふちの水底からどういう加減か清水しみずが湧き出し、水が水を水面へ擡げるうずが休みなく捲き上り八方へ散っている。
金魚撩乱 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
その国民たるもの、なお迷信のふちに沈みおるありさまにては、実に国家の体面を汚し、国民の名誉を損するといわねばならぬ。
迷信解 (新字新仮名) / 井上円了(著)
また山代の大國おほくにふちが女、苅羽田刀辨かりばたとべに娶ひて、生みませる御子、落別おちわけの王、次に五十日帶日子いかたらしひこの王、次に伊登志別いとしわけの王三柱。
山岸の一方がふちになって蒼々あおあおたたえ、こちらは浅く瀬になっていますから、私どもはその瀬に立って糸を淵に投げ込んで釣るのでございます。
女難 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
金に目のくらんだ兄に引きられて、絶望のふちへ沈められて行った、お柳に対する憐愍れんびんの情が、やがて胸にみ拡がって来た。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
永光寺の開山(名をきゝもらせり)血脉けちみやくをかのふちにしづめて化度けどし玉ひしゆゑ悪竜得脱とくだつなし、その礼とてかの墓石はかいしふちにいだして死期しきしめす。
「網では獲れそうにもないから、明日あすは釣ってみようか、あのふちの傍で釣ってみてもいいな、釣るがよいかも知れないぞ」
ある神主の話 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
私たちが「弓と鉄砲」の話をかつぎ廻っていた翌年には、独墺どくおう合邦という爆弾的宣言が、欧洲を一挙に驚愕きょうがくふちおとしいれた。
原子爆弾雑話 (新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)
ちと異なお願いでござりまするが、てまえは今おおせのその右門、けさほどうしふちでゆゆしき変事がござりましたのでな。
そして彼は恐ろしい疑惧ぎくと、絶望のふちに沈んでいる伯母を残したなり、口笛を吹きながら自分の「道場」へと立ち去った。
この世は俗悪と冷却とのふちから、もう起き上り得ないかのように見える。工藝の世界が今日ほど暗黒にされたことは、かつてなかったであろう。
工芸の道 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
こっちは「よそ者」であり、お客であり、おまけに「若もの」と来ている。それだけでもう、相手を驚きと怖れのふちへ突きおとすには十分なのだ。
嫁入り支度 (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
自分はこう考えて、浮かぶことのできない、とうてい出ずることのできない、深い悲しみのふちに沈んだような気がした。
奈々子 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
そして天気のよい日に十五分間の滞潮よどみを利用して、モスケー・ストロムの本海峡を横ぎってふちのずっと上手につき進み
山腹の左の方から渓水たにみずが湧き出て滝のように流れています。それが深い谷に落ちてふちになったり、また岩に激して流れ出したりする変化が面白い。
葉子の心は無理無体な努力で時々驚いたように乱れさわぎながら、たちまち物すごい沈滞のふち深く落ちて行くのだった。
或る女:1(前編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
江戸えど民衆みんしゅうは、去年きょねん吉原よしわら大火たいかよりも、さらおおきな失望しつぼうふちしずんだが、なかにも手中しゅちゅうたまうばわれたような、かなしみのどんぞこんだのは
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
さらば往きてなんぢの陥りしふちに沈まん。沈まば諸共もろともと、彼は宮がかばねを引起してうしろに負へば、そのかろきこと一片ひとひらの紙にひとし。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
それから、同じ円朝物の「真景かさねふち」が近来有名になった。しかし大体に於いて怪談劇に余り面白いものは少ない。
怪談劇 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
そこは丁度ふちになった個所で、たださえ深い上に、雨降り続きの増水、しかも、夕暮れの深い谷間、その底を流れる川は、いとど物凄く見えるのだ。
吸血鬼 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
するとお松は何も言わずに「三太」をふところに入れたまま、「か」の字川の「き」の字橋へ行き、青あおとよどんだふちの中へ烏猫をほうりこんでしまいました。
温泉だより (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
「馬鹿な自信を持ってかえって不安のふちに足を踏み入れぬように用心した方がいだろうよ。この弓をやろうじゃないか、腹のいた時の用心に——」
吊籠と月光と (新字新仮名) / 牧野信一(著)
と、自身で自身をしかって見たが、私にはただたわいもなく哀れっぽく悲しくって何か深いふちの底にでも滅入めいりこんでゆくようでこらしょうも何もなかった。
うつり香 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
銀色のつばさを閃かして飛魚の飛ぶ熱帯ねったいの海のサッファイヤ、ある時は其面に紅葉をうかべ或時は底深く日影金糸をるゝ山川の明るいふちった様な緑玉エメラルド
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
ふちのようなしずけさの底に、闇黒やみとともに這いよる夜寒の気を、お艶は薄着の肩にふせぐすべもなく、じっと動かないお藤の凝視ぎょうしに射すくめられた。
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
私たちは川風に吹かれながら橋の欄干らんかんにもたれて、かねふちの方からきた蒸気船が小松島の発着所に着いてまた言問ことといの方へ向かって動き出すまで見ていた。
桜林 (新字新仮名) / 小山清(著)
酒の酔ひは一時しのぎなものだつたが、一切の習慣をふり捨て、冒険的なふちへ飛び込んでゆける力がいて来る。
浮雲 (新字旧仮名) / 林芙美子(著)
東京の政界は華々しい。我ら田舎に住んでいるものは、ふちに臨んでぎょうらやむの情に堪えない。しかしだいなるものは成るに難く、小なるものは成るにやすい。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
お父様の髑髏どくろで作ったところの、髑髏の盃を取り出して、木曽川の深所ふかみともえふちに、沈んでいるお父様の死骸なきがらへつなぎ合わせて、お上げしなければならない
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)