かす)” の例文
そのとき金は、ほんのかすかにニコついて、煙草の火をつける。彼がフーッと煙を吹き出すと女どもは、身体を蛇のようにねじらせて
ゴールデン・バット事件 (新字新仮名) / 海野十三(著)
その間に一種特別な、ひゅうひゅうと、かすかに長く引くような音がする。どこかの戸の隙間から風が吹き込む音ででもあるだろうか。
心中 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
鼻をあてて匂を嗅ぐと、かすかにエーテルの匂いがする。これはきっとここからエーテルを精巧な噴霧器で吹きこむんだろうと思った。
黒襟飾組の魔手 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
白い指のまろび出す音階は、いとやら涙の音やら、彼女にもわからなかった。そのうごかない唇が歌うかすかな琴歌も、嗚咽おえつに似ていた。
私本太平記:02 婆娑羅帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
睡魔の妖腕ようわんをかりて、ありとある実相の角度をなめらかにすると共に、かくやわらげられたる乾坤けんこんに、われからとかすかににぶき脈を通わせる。
草枕 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
疲れた人のような五月の空は、時々に薄く眼をあいて夏らしい光をかすかにもらすかと思うと、またすぐにむそうにどんよりと暗くなる。
磯部の若葉 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
茜色の水々しい空にはかすかに横雲が浮んでいて、それは広島の惨劇の跡の、あの日の空と似てくる。いぶきが彼のなかを突抜けてゆく。
火の唇 (新字新仮名) / 原民喜(著)
ただ一つ清浄無垢せいじょうむくな光を投げていた処女を根こそぎ取って園に与えるということは……清逸は何んといってもかすかな未練を感じた。
星座 (新字新仮名) / 有島武郎(著)
夫人は喜んで泣くことをやめて元豊をでた。元豊はかすかに息をしていたが、びっしょり大汗をかいて、それが裀褥しとねまで濡らしていた。
小翠 (新字新仮名) / 蒲 松齢(著)
うたたねの橋は、木深い象谷きさだにの奥から象の小川がちょろちょろとかすかなせせらぎになって、その淵へ流れ込むところにかかっていた。
吉野葛 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
と子供の声も黄昏たそがれて水底みなそこのように初秋の夕霧が流れ渡る町々にチラチラとともしびがともるとどこかで三味線の音がかすかに聞え出した。
山の手の子 (新字新仮名) / 水上滝太郎(著)
少しかすかではあるが、善く調子の合った歌が聞える。面白げに歌っている声がかすめて通るので、木立の葉がゆらぐような心持ちがする。
みれん (新字新仮名) / アルツール・シュニッツレル(著)
銀子の牡丹は苦笑しながら、照れ隠しに部屋をあちこち動いていたが、風に吹かれる一茎のあしのように、繊弱かよわい心はかすかにそよいでいた。
縮図 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
草刈鎌くさかりがまの一ちやうや二ちやうまへどうするもんぢやない、あつちへまはつてあしでもあらつてさあ」内儀かみさんのくちもとにはかすかなわらひがうかんだ。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
姑はかすかなかすりきずを負って逃げ出した。こうして意外な悲劇が突発し、嫁が姑を刺したという稀有な故殺未遂犯が成り立った。
姑と嫁について (新字新仮名) / 与謝野晶子(著)
そのみゝもとでは、『をんな一つで』とか、『よくまああれだけにしあげたものだ』とかいふやうな、かすかな聲々こゑ/″\きこえるやうでもあつた。
(旧字旧仮名) / 水野仙子(著)
しかし、その瞬間しゅんかん、ぼくがつばをすると、それは落ちてから水溜みずたまりでもあったのでしょう。ボチャンという、かすかな音がしました。
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
同時に、私が呆然となっているのを、何か他の意味で面喰っているものと感違いしたらしく、かすかに二三度うなずきながら唇を動かした。
ドグラ・マグラ (新字新仮名) / 夢野久作(著)
しかし、紀久子は真っ青な顔をして、かすかにわななきながら腰を上げた。敬二郎の目は驚異と哀愁との表情を含んで輝きだした。
恐怖城 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
瞳の色は、飽くまで冷たかったが、かすかにせまった眉や、顎のあたり、胸底の懊悩おうのうをじっと押しこらえている感じが、歴々ありありと浮び上った。
貞操問答 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
依然たるむし暑さだったが、彼はこの悪ぐさいほこりだらけな都会に毒された空気をむさぼるように吸い込んだ。彼はかすかにめまいを覚えた。
此時このとき不意ふゐに、車外しやぐわい猛獸まうじうむれ何者なにものにかおどろいた樣子やうすで、一時いちじそらむかつてうなした。途端とたん何處いづくともなく、かすかに一發いつぱつ銃聲じうせい
前後左右をかぎっていて、街の下を流れる下水の如くに、時々ほんのちょっとした隙からかすかなむなしい響を聞かせるように三造には思われた。
狼疾記 (新字新仮名) / 中島敦(著)
わが車五味坂ごみざかを下れば茂み合うかしの葉かげより光影ひかげきらめきぬ。これ倶楽部クラブの窓より漏るるなり。雲の絶え間には遠き星一つかすかにもれたり。
おとずれ (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
四邊すでに暗く、山樹、溪流また明かに辨ずる能はざらんとする今の時に當りて、當面夕日の餘光のかすかに殘れる空の上遙かに
秋の岐蘇路 (旧字旧仮名) / 田山花袋(著)
何か最近、彼女に差し迫った変事でもありはしまいか——そんな予感がかすかに起ると小田島は尚更じっとして居られなかった。
ドーヴィル物語 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
そのうちにかすかに酔が学士の顔に上った。学者らしい長い眉だけホンノリと紅い顔の中に際立きわだって斑白はんぱくに見えるように成った。
岩石の間 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
こう答えた時私は、私の今までの全経歴、全経験を、私の胸の中にぱっとひろげられたのを感じた。不覚ふかくにも私は、かすかな涙を私の眼に宿やどした。
それは物を食べるということが女の美しさが倍に見え、唇のうごきや頬のうごきのかすかさにも、いい知れぬ親しさがあった。
姫たちばな (新字新仮名) / 室生犀星(著)
女はかすかであるが今まで聞き覚えのないいびき声をたてていた。それは豚の鳴声に似ていた。まったくこの女自体が豚そのものだと伊沢は思った。
白痴 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
滝上たきのぼりまでもやった、一時は絶望に近かった、しかし山腹に辿りついてからは、去年の路が、かすかに見分けが出来た、頂は存外変りがなかった。
白峰山脈縦断記 (新字新仮名) / 小島烏水(著)
私はかすかな好奇心と一種馴染なじみの気持から彼らを殺したりはしなかった。また夏の頃のようにたけだけしい蠅捕り蜘蛛がやって来るのでもなかった。
冬の蠅 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
かすかな風が私のまぶたにあたる。海の向うにはくろぐろと鹿児島の市街があり、そのひとところが赤いほのおをあげて燃えていた。
桜島 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
半鐘がかすかに聞えていたが、もう意味の判別はつかなかった。然しそれは私達のカドリールの絶えざる伴奏になっていた。
ゼーロン (新字新仮名) / 牧野信一(著)
かすかに響いて来たのですけれども、お玉の耳には聞き洩らすことのできない声、米友の好んでうたう歌に相違ありません。
大菩薩峠:06 間の山の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
くもうごいて、薄日うすびして、らしたむねと、あふいだひたひかすかにらすと、ほつとつたやうないろをしたが、くちびるしろく、血走ちばしるのである。
神鑿 (新字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
の明けるに従っていよ/\安心いたしました。よう/\其の日の巳刻よつ頃になりますと、嬉しや遥か彼方あなたに当りかすかに一つの島が見えまする。
後の業平文治 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
かすかにいきを休めてしずかな感情をたたえ、結句の、「消え残りたる」は、迫らない静かなゆらぎを持った句で、清厳の気は大体ここに発している。
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
かすかながらそれはそれはいい笑顔をみせた。可愛いのだろう。平生は名をよんでたのに今度悪くなってから兄のことをおじいさんといいだした。
母の死 (新字新仮名) / 中勘助(著)
階下では、老父母も才次夫婦も子供たちも、あちこちの部屋に早くから眠りについて、階子段の下の行灯あんどんが、深い闇の中にかすかな光を放っていた。
入江のほとり (新字新仮名) / 正宗白鳥(著)
ただかすかに伝わって来るような、淋しい場所にたたずんでは、この遥かなうたげの騒音の中から、お前の高らかな声を聞き分けようとしたことがある。
だんだん眼がやみになれて来た時一郎はその中のひろい野原にたくさんの黒いものがじっと座ってゐるのを見ました。かすかな青びかりもありました。
ひかりの素足 (新字旧仮名) / 宮沢賢治(著)
欄干には、下の西洋樫せいやうがしの木が、大きな柔々やは/\した青葉を揃へてゐる。青い空には低いかすかな雲が迷ふやうに消えて行つた。
桑の実 (新字旧仮名) / 鈴木三重吉(著)
そのかすかな呼び声で、こっちへやって来るのか、遠くへ行ってしまうのかわかるのである。彼は大きなかしわの間を縫って、重たげに飛んで行く。
博物誌 (新字新仮名) / ジュール・ルナール(著)
彼は今度は裏から廻ってみたが、やはり雨戸は閉って、ランプの光がかすかに闇を漏れるのみであった。モウ最後である。彼の手頼たよりは尽きたのである。
愛か (新字新仮名) / 李光洙(著)
切開きはかすかに分明で、木の根を踏み、石楠を押し分けて登る氣持がもの珍しい。凡そ三時の頃三角點の標石を踏む。
黒岩山を探る (旧字旧仮名) / 沼井鉄太郎(著)
一歩々々臭気がはなはだしく鼻を打った。矢っ張りそれは死体だった。そしてきわめてかすかに吐息が聞えるように思われた。だが、そんな馬鹿なこたあない。
淫売婦 (新字新仮名) / 葉山嘉樹(著)
土蔵へ仕舞しまってあった菅笠が二人の前へ置かれた。古びた、雨うたしになった、かすかに、宝沢同行二人ににんと読める、所々裂け目のついた菅笠であった。
大岡越前の独立 (新字新仮名) / 直木三十五(著)
かすかに云ッて、可笑しな身振りをして、両手をかおてて笑い出した。文三は愕然がくぜんとしてお勢を凝視みつめていたが、見る間に顔色を変えてしまッた。
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
未だ一マイルの距離があつたが、私は、この極めて深い靜寂の中で、その町の活動のかすかな響を明かに聞くことが出來た。