馬子うまこ)” の例文
蘇我氏は、稲目いなめ馬子うまこ蝦夷えみし入鹿いるかの四代を通じ、いずれも、優れた統治者であったものと判断するのが合理的である、と私は考える。
中央集権は主として屯倉みやけ(直轄地)の設置によって行なわれた。大伴の金村かなむらにしても、蘇我の稲目いなめ馬子うまこにしても、この屯倉の設置には熱心に努力しているのである。
日本精神史研究 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
蘇我そが物部もののべ両族の争いにとどまらず、穴穂部皇子あなほべのおうじ宅部皇子やかべのおうじの悲しむべき最期があり、物部氏の滅亡についで、ついには崇峻すしゅん天皇に対する馬子うまこ等の大逆すら起っている。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
馬子うまこは、太子の御英明の前に、雌伏してゐる外なかつたが、太子薨去後、その野心を現はし、不臣の振舞多く、その子蝦夷えみし、孫入鹿いるかに至つては、馬子以上に専横を極め
二千六百年史抄 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
さて、蘇我氏の権力は、馬子うまこ蝦夷えみし入鹿いるかと、三代にわたって続いたが、とくに馬子は、ひじょうに人望のあった人である。
太子は何故これに徹底的な抑圧を加えなかったか、馬子うまこ兇暴きょうぼうを何故黙視しておられたか——後世史家の屡々しばしば問題としたところであるが、太子の憂悩もまたそこにあったと拝察される。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
馬子うまこは、諸皇子群臣に勧めて、守屋を滅さんことを謀る(紀)。厩戸皇子は、白膠木ぬるでを切り取り、四天王像を作り、誓文を発す(紀)。馬子も又誓言を
もっとも崇仏と政治謀略は別であったことは、馬子うまこ以来の伝統かもしれない。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)