園城寺おんじょうじ)” の例文
園城寺おんじょうじ、すなわち三井寺の炎上を見たのはこの日のことである。この正月十六日合戦は、大津合戦とも当時呼ばれた激戦だった。
私本太平記:10 風花帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
かれの本姓は戸田氏である、近江おうみのくに膳所ぜぜ藩の老臣戸田五左衛門の五男に生れ、三十歳のとき園城寺おんじょうじ家の有司ゆうし池田都維那の家に養嗣子ししとしてはいった。
日本婦道記:尾花川 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
園城寺おんじょうじの牒状に対する南都の牒状を書いたのが、この信救で、「清盛きよもりは、平氏のかす・ぬか、武家のごみ」
妙音院入道相国しょうこく(師長公)、叡山からは良宴法印、行智律師、仙雲律師、覚兼阿闍梨、重円大徳という顔触れ、三井みい園城寺おんじょうじからは道顕僧都、真賢阿闍梨、玄修阿闍梨、円隆阿闍梨
法然行伝 (新字新仮名) / 中里介山(著)
しかも麾下きかには、万余の新軍勢を加え、山門の衆徒三千、さらに園城寺おんじょうじの大衆までをかぞえてみると、義貞すらが
私本太平記:12 湊川帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
三井寺は天智天皇の御願寺ごがんじ、その後智証大師がここを伝法灌頂かんじょうの霊所として園城寺おんじょうじを建てた尊い場所である。が、今はもう焼跡しかない。修行の鈴の音も絶え、仏前にそなえる水を汲む人影もない。
いるのは、雲の上ときわまった。叡山えいざんだの、園城寺おんじょうじだの、奈良だのにも、金襴きんらんぐるみの悪仏どもがたくさんに
高倉宮園城寺おんじょうじへ入御