内蔵允くらのすけ)” の例文
正座に二人、国老の柴田外記と原田甲斐が坐り、脇に三人、宿老の富塚内蔵允くらのすけ、茂庭主水もんど、遠藤又七郎がいた。
大番頭おおばんがしら石川内蔵允くらのすけの三人を二之丸向かい屋敷に呼び寄せ、朝命をもって死を賜うということを宣告した。
夜明け前:03 第二部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
席に列した国老は、富塚内蔵允くらのすけ、大条兵庫だけで、これらも一ノ関には対抗できなかったし、評定役の人たちはなおさら、一言も異議を述べる者はなかった。
「このあたりに別所内蔵允くらのすけ先生のお住居があると聞いてまいったが、もし知っていたら教えてれまいか」
内蔵允留守 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
涌谷わくや(伊達安芸)さまが、自分の知行二万二千石を献上する、と申し出られてから、富塚内蔵允くらのすけ、中島伊勢、また佐兵衛(宗規)さまなどまでが、同じように知行献上を云いだしたので
宿所へ案内したのは、柴田(内蔵介くらのすけ)どの、富塚(内蔵允くらのすけ)どのであった。
そのまん中どころの、竹垣をまわした別墅べっしょづくりの屋敷の門前で、若者は駕籠をおりた。——それは藤江内蔵允くらのすけの控え家であった。藤江は藩の筆頭家老であり、若者はその長男で小五郎といった。
(新字新仮名) / 山本周五郎(著)
主賓は伊達安芸だてあき、つぎに現職の家老、奥山大学、大条兵庫、古内主膳。また「一家いっか」の格式である片倉小十郎。ほかに原田甲斐、富塚内蔵允くらのすけ、遠藤又七郎、この三人は「着座ちゃくざ」といって宿老しゅくろうであった。